使徒の働き22章

パウロの経歴が語られている。タルソの出身であるが生粋のユダヤ人で、エルサレムで育てられ、教師ガマリエルのもとで学んだという。つまり当時の最高学府で学び、その後は律法の教師として活躍していた。おそらくサンヘドリン議会の議員の一人であったともされている。律法に対する熱心さは、キリスト教徒を迫害し、処罰する先鋒に立ったほどであった。ところが、その迫害の最中でキリストに捕らえられてしまう。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」と彼が迫害していたイエスに出会い、彼は変えられていく。パウロの動きを阻止する者が誰もいない中で、彼は超自然的な力に捕らえられて行く。当時のキリスト者は誰もが、この破壊的で頑迷な人物と彼を生み出した組織体制に、恐怖を抱き、手も足もでない絶望的な思いであったはずだ。しかし、そこに神の力が働き、神の業がなされていく。この出来事を読む時に、やはりいかなる困難さにあっても、怖気づいてはならない、と思わされる。どんな望み無き状況に置かれようと、キリスト者には可能性がある、と考えたい。事実、パウロは言う。「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせた」(4節)。それが、突然、天からまばゆい光が私の周りを照らし、私は救われることになった。神の介入があった、と。神が生きておられることを私たちは信じなければならない。そして、望みを捨ててはならないのだ。私たちが努力して何とかならないのが、人の心である。それは、まさに、神のあわれみの業であり、定めとして受け止め(13:48)、信仰をもって良き結果を期待し、祈り続けなければならないのである。
パウロがエルサレムに上ろうとしたのも、そうした自らの経験を振り返るところがあったからなのだろう。それは、誰の目から見ても止めて欲しいと思うほどの無謀な行動であった(21:4、12)。しかし、彼は、自分の劇的な回心を思えばこそ、敵対者に対する神のあわれみの業による救いと回心を期待せざるを得なかったことだろう。霊的成熟は考え方の成熟であると同時に信仰の成熟である。望みえないものを望み見る力が養われることである。明らかにパウロは、夢を語っている。ユダヤ人と異邦人が一つになる、パウロの奥義観は、形をなしており、もうすぐそれは、ローマの獄中でしたためようとするエペソ人への手紙として結実することになる。ともあれ、かつては敵対的な人物であった者が、今や敵対的に迫られる者となっている。そうであればこそパウロもまた、敵対的に迫る者の中に、第二の自分、第三の自分が起こされるであろうことを、覚えたことだろう。
最後に、パウロに教えられる事は、自分で人生を選択して生きるのではない、神様に人生を導いていただく姿勢を持つことである。神に導かれて生きることである。いつも、神様は自分に何を期待しているのか、自分はどうするように求められているのか、そういう所から考えられるようになるには、実は、何十年もかかったりするものである。だいたいは、神様を呼び求めながら、自分の思い通りに、自分の願う通りに生きるのであり、神はそのしもべであったりする。しかし、その主客転倒に変化が生じる時が来る。パウロは「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか?」という言い方をしたが、神の圧倒的な権威のもとに遜って、神の導きを求めながら生きるそういう段階へ進むことがある。
パウロは自分を評価して語る。自分は神に対して熱心な者であった。間違った熱心さに気付かずにいた、と。彼はキリスト者が死んでも何とも思わず。むしろ、それで神に対して熱心であると思っていた。自分のやることに間違いはないと思っていた。でも間違っていた。その間違いに気づいた時に初めてパウロは、「主よ。私はどうしたらいいですか?」と言いえたのである。そして彼が神の前に降伏し、「主よ私はどうしたらいいのですか?」と謙虚に耳を傾けた時に、パウロは、自分が行動すべき使命をはっきりと聞きとった。信仰者は自分の霊的成長に責任を持っている。悟ったこと、教えられたことに取り組んでいかない限り、決して成熟の実を得ることはできない。
25節、当時のヴァレリア法、護民官法は、ローマ市民を打ちたたくことも、かせにはめることさえも禁じていた。パウロはその法に訴えた。ルカがこのことを記録したのは、ローマ市民であるキリスト者がこのような権利を主張できることを諭すためであったのだろう。ただのエピソードではない。キリスト者がいかに、賢く荒波を超えていくべきかを語っている。キリスト者は、ただ単に、キリストを盲信しているわけではない。信仰を持つことは非常識になることではないし、この世の社会感覚に疎いままでいることをよしとはしない。日本人であれば、日本の法律の中で、行動しているものであろうし、教会も、宗教法人法の定めの中で活動を行っている。それは、しばりでもあるが、逆に、守りとして働くこともある。そういう意味では、キリスト者は日本の法律をよく知るべきであり、社会の常識感覚をしっかり持っていく必要がある。そしていわゆる要領のよい人間として生きるのではなく、語るべきことを語りながらよりよい生を生きることが大事なのだ。社会を熟知しながら、時代の常識を超えて生きるのがキリスト者である。

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