使徒の働き3章

使徒の働き3章 足の不自由な人の癒し 1.足の不自由な人の癒し(3:1- 10)
「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」とあります。午後3時は、ユダヤ教では、夕べの祈りの時間にあたります。ペテロとヨハネは、これまでのユダヤの宗教とは異なる新しい信仰を持ったはずでしたが、この時はまだそれほど生活スタイルに変化はありませんでした。まだまだキリスト教は当時のユダヤ教とは未分化の状態であったわけです。これがはっきりするのは、使徒の働きでは15章以降のエルサレム会議からでしょう。
ともあれ、彼らが、宮に上っていくと、そこに生まれつき足のなえた人が運ばれてきました。ちょうど人通りが激しくなる時でしたから、彼は施しを得るために、運ばれてきたのでしょう。ペテロがその男に気づいて言います。6節「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」そして、ペテロはその男の右手を掴むと、引き上げ、立たせるのです。たちまち彼の萎えた足とくるぶしには命が満ち、強くなりました。人々は、「彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた」とありますが、実の所、この男自身もそうであったことでしょう。それこそ彼は、何千回も何万回も、萎えた足が強くなることを願っていたはずです。彼は歩いたり、飛び跳ねたりしながら、神を賛美し、自分の身に起こった神の奇跡の確かさを味わい喜んだのでした。しばしば人は、お金を求めますが、本当に必要なのはお金ではないものです。この男は、まさに自分が本来求めていたものを、与えられる神の恵みに与ったのです。
2.ペテロの説教(
この出来事に、人々が驚いて、一斉にペテロとヨハネのもとに駆け寄ってきました。ペテロとヨハネが注目されています。しかし、彼らは、注目すべき相手が間違っている、注目すべきは、この男に奇跡をもたらしたイエスである、とイエスについて語り始めるのです。
この時、ペテロの頭にあったのは、マタイの福音書21章ではなかったか、と思います。それは、ぶどう園を農夫に貸して旅に出た主人のたとえ話です。収穫期になって、ぶどう園の主人が分け前を得ようと、しもべを遣わすのですが、農夫は、遠く離れた主人を甘く見て、しもべを打ち叩いたり、殺したりし、終いには主人の息子までも殺してしまうのです。ユダヤ人たちは、まさにそのたとえ通りに、神に遣わされたイエスを殺してしまったというわけです。ペテロは、イエスが神に遣わされた御子であることを認め、悔い改めるように促します。そして十字架はまさに罪の赦しのため、神との関係を正し、この男のように、神の祝福に与らせてくださるためのものだ。信じて神の祝福を得るように、というわけです。
ただし、ユダヤ人は、日本人のように聖書の神を知らない民族ではありません。つまり神を信じない者ではなく、信じる者になりなさいと言っているのではなく、神を信じていながら、神とは無関係に生きている生活を改めるようにと言っているのです。信仰を持ちながらも、神を否定する歩みをすることがあるものでしょう。独りよがりな信仰、ご利益的ご都合主義の信仰、ファッションに過ぎない信仰、数えればきりがありません。大切なのはまことに、聖書の神のことばに耳を傾け、神の心を自分の心として歩む信仰です。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、当時忠信なユダヤ人は、日に何度も祈りましたが、それは成人に課された義務でもありました。では、当時は、何歳から祈りの義務を持つ成人と見なされたでしょうか?①13歳、②16歳、③20歳、昨日のクイズの答えは、①ハサルタ(集合)の日です。エルサレムに集合する祭りの一つでした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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