創世記12章

アブラムが生きたのは(使7:2)、ウル第三王朝時代(1960-1830年)最初の王ウル・ナンムの時代であったと推測されるが、はっきりとはわかっていない。仮にそうだとすればウルが高度な都市文明を誇っていた時代である。ウルは、現在のイラクに位置する。
アブラムは父テラに同行し、三日月地帯に沿ってユーフラテス川を北上し、カラン(「通路」を意味する)を経由した。北部メソポタミヤの町カランは、ニネベとバビロンなどと、南西部のダマスコとツロ、そしてエジプトの町々とを結ぶ中継都市として繁栄し、商業の中心地であった。現在は、一寒村に過ぎないトルコのハルランと考えられているが、カルデヤのウルと同じように月神を拝むなど、文化的な共通性のある町で、父テラはここで死んだ。(創世記11:31-32、12:4-5、使徒7:2,4)
その後、アブラムは75歳の時に、さらなる神の召しに応じて、西に移動、カルケミシュ付近でユーフラテス川を越え、南に下りアレッポ、ダマスコ、ハウラン地方を進んでガリラヤ湖の南方でヨルダン川を越えてシェケムへと至っている。約640キロの旅である。カナンと呼ばれたこの地域は、肥沃なナイル峡谷やチグリス・ユーフラテス流域に比べれば貧しい土地であったが、アラビヤの砂漠の人たちから見れば「乳と蜜の滴る地」であった。
高度な文明都市ウルから商業都市カランへ、そして田舎町のカナンへ、今まで慣れ親しんだものを捨てて、見知らぬ町並みや人々、言語、文化、気候、そして地形の中を、神に導かれながら、アブラムは、祝福という名には程遠い退屈な町へと辿り着くのである。
ここから20章までは、単純に息子が与えられる、子孫が繁栄する、という約束が話題の中心である。それはある意味で物質的な意味での祝福観に等しい。そしてアブラムはその約束の実現をじらされ、その間、こらえきれずに希望を失い、約束をだめにしかけたり(12,16,20章)、信仰を取り戻し、約束を期待し続けたりと、不安定な歩みをしている。しかし、その不安定さにもかかわらず、またアブラムにとっては全く可能性のない状況の中で、神の全能性を示すような形で、約束を実現するのである。このような例を静かに読んでいくと、私たちの不完全さにもかかわらず、神がその恵みの故に、私たちを支え祝してくださるであろうことを、いついかなる時も期待すべきことを教えられる。
ただ、この物語は、これから先読むように、そのようなご利益的な内容を超えたメッセージを伝えていることに注意すべきなのだろう。それは、聖書を全体通読することで徐々に見えてくる部分でもあるが、神の祝福を何と理解するかが問題である。もし、祝福が金回りのよさ、事業の成功、最高の衣食住、自己実現と言ったことに尽きるならば、アブラムの場合、それはある程度達成されたことではあろうが、それが聖書の語ろうとする意図ではない。3節、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とある。聖書が語る祝福は、11章までの出来事が前提になっていることに気づかねばならない。1-11章は、人類の初め、12章以降はイスラエル民族の初めと分断して創世記の構造を掴むようでは、その意図はわからない。3節は、神の前に驕り高ぶった人々が神の呪いを受け、地の全面に散らされたバベルの事件を頂点とする出来事の転換点として機能している。つまり、アブラムを通して、再び、全ての民族は神のもとに一つとされる、これが、神が語られた祝福なのである。神が私たちに与えられる祝福は、物でも、名誉でも、お金でもない。むしろ目に見えない心通いあう時である。人と人が和合し、一つにされることである。人間関係に苦しみ、一つになれない悲しみを味わっている人であるなら、それはよく理解されることだろう。神は、私たちが最も必要とする祝福を、アブラハムとその子孫を通して与えると約束された。
実際、この祝福の約束は、繰り返し更新されている。ロトと別れた後(13:14-16)、神がソドムを滅ぼされる前(18:18)。また、アブラムの子イサクや(26:3,4)その孫ヤコブに対して(28:13,14,35:11)も。大切なことは、この祝福の約束が、ペテロ(使徒3:25)やパウロ(ガラテヤ3:14)が語るように、私たちにも与えられていることでありエペソ3:6や黙示録7:9において、最終的な、人類回復の姿として描かれていることである。私たちは祝福の受領者であると同時に祝福の仲介者である。様々な人間の破れを繕う、関係を建てあげる祝福の使者である。
アブラムは、神の約束を受けて、カナンの地に入った(5節)。しかしそこには、飢饉があり、アブラムはしばらくエジプトに滞在するために、下って行ったとある。このような緊急避難は、当時はよくなされたことであって、アブラムも、深く考えることなく出て行ったのであろう。しかし、アブラムは自分の判断に頼らず、神の御心に従うことを学ばなくてはならなかった。パウロが「主のみこころならば」と言う、その精神を身に着けなくてはならなかった。アブラムは、一つの困難に出くわし、高い代償を払って、自分が神のしもべであることを学んでいく。神のみこころに従うことは、口で言うほどたやすいものではない。まず私たちは、神のみこころをよくみきわめる力を必要としている。パウロはそのために、識別力が与えられるようにと祈っているが、私たちも同じである。神は無駄な試練を与えられることはない。すべての困難は、神のみこころの中で起こっている。神のみこころを知る大切な機会であり、私たちの成長の機会である。

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