創世記13章

アブラムはエジプトの危機から逃れて、再び約束の地へと帰って来た。アブラムも私たちと変わらぬ弱さを持った人間である。しかし、アブラムは、思わぬ失敗の中で、もう一度初心に戻っている(3節)。彼はただ、主のために祭壇を築き、主の御名によって祈ったのではない。著者が丁寧に、「ベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た」と記しているのは、アブラムの行動の軌跡を辿ったのではなく、初心に戻った彼の心の内を示そうとしたのだろう。ヘブル語原文では、3節の「来た(行く)」は4節の「呼び求めた」につながる。「呼び求めた」と訳されたヘブル語は、「イクラー」である。つまりアブラムは、そこに辿り着くやいなや神を呼ばわった。そして、自らの心の内を告げたのである。
既に述べたように、アブラムは神に導かれるままに、住み慣れた大都会から引き抜かれ、田舎へやってきた。アブラムは確かに物質的には祝されていたが、約束の地は、彼の期待するようなものではなかった、と思われる。実際その場所は、改めて住んでみると狭すぎる場所だったからである(6節)。当然、アブラムと、ロトの間には、争いが生じるようになった。アブラムは、当面この争いを解決しなければならなかった。そこで、アブラムは分かれて生活することを提案する。神の与える祝福が、一つとされることであるとすれば、神のなさることは全く意味不明と言わざるを得ない。一つになるどころか、わかれたのであるから。しかし、それは表面上のことであり、神の祝福がアブラムを通して、ということが中心となるための分離であったのかもしれない。地上にあって一つになるためには、世との分離も必要なのではないか。やがて来る世におけるキリストの下にある一致は、神を愛し、神に身をささげ、信仰の戦いを戦い抜いた者たちの一致である。神はその恵みによってアブラムをその一人として選ばれた。だから、神の可能性にだけ立つアブラムは、年齢的にも立場的にも優先権があるにもかかわらず、移動場所をロトに決めさせた。アブラムは、自己主張を押さえて、ただ神だけを選び、神に与えられたもの、譲られたものでよしとしたのである。というのも、神を知っているということが既に十分な恵みであり、目に見えるものを得ることが必ずしも幸せではないという確信があったからだろう。アサフは、「神の近くにいることが、しあわせなのです(詩篇73:28)」と歌っている。神と共にあることの幸せは、経験的に理解されることであり、信仰が成熟すればこそ起こりうる発想である。ともあれ、アブラムは昔のアブラムではなかった。妻を危険にさらし、パロとの関係をも壊し、高い代価を払って学びとったことなのだろう。
逆にロトはヨルダンの低地全体を見渡した。その土地は、ロトの貪欲なまなざしには最良、最善の地と見えたようである。ロトは、神との平和、アブラムとの一致を求めたのではなく、地上的な繁栄に魅せられ即刻この地を選んだ。ロトは結果、神の選びに背を向けたのである。確かにソドムとゴモラは、滅びる前は、どちらも文明の中心地で栄えていた。しかし、そこには予測のつかないリスクも潜んでいた(13節)。ロトは、目先に捕らわれて、神を畏れない者たちの歩みに、引き込まれ、巻き込まれていくのである。それは明らかにアブラムとは対照的な姿である。世を愛するか、神を愛するか、視力を頼りに見えるものに目を留めるか、信仰をもって見えないものに目を留めるか、私たちはいずれかを選んで生きている。しかし神を愛するところに、私たちの思いを超えた祝福があることを、忘れてはいけない。
ロトと別れ、狭い土地に一人たたずむアブラムに神が再び語られている(13:14)。彼が目で見て、狭いと思ったその考え方が正されている。彼は自分が利用できる事柄を考えて、この土地は狭いと思ったのだろう。しかし、神は、彼がその時は利用できないと思っているところも含めて、目の届く限り、あなたの土地である、という。アブラムはまだこの時、自分の子孫がどのようになるか、ということの考えは全くなかったと思われる。実際、アブラムに、後のイスラエルの歩みなど、全く想像もつかなかったことであろう。神はアブラムに再び約束を更新される。私たちの思いを超えた神の導き、神の計画がある。私たちは物事を小さく考えて、一喜一憂し、不平不満をまき散らしていることがある。神は偉大な存在である。信仰により、目に見えない大いなる祝福を計画しておられる神のみ旨に思いを潜め、期待をもって導かれて行こう。

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