申命記14章

4)申命記14章 異教の習慣に倣うな
<要約>
皆さんおはようございます。本章は、12章から続く文脈の中でしっかりと読んでいきたいところです。異教的な習慣に誘い込まれてはいけない、という13章に続いて、具体的に生活上の問題が語られて行きます。それは、冠婚葬祭のことであったり、食事や金銭的な事柄であったり、と宗教は生活と複雑に絡み合っているのです。識別力を働かせ、まことの神の命に生きる信仰はどうあるべきかを考えたいところでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
 本章も、12章からの流れで読むべきものなのだろう。注解書によっては、個々の章について丁寧に解説されているが、それぞれのつながりがわかりにくい。そういう意味では本章は、12章の異教の祭壇を打ち壊し、ただイスラエルの主のみを喜びとせよ、という教えに始まり、13章のイスラエルの主からあなたを引き離そうとするものは何でも、たとえば、偽預言者、近親者、近隣の者の宗教的な誘惑に乗ってはならない、という教えになり、それはさらに14章において、近隣の者の宗教的誘惑にどんなものがあるか、という具体的な例が示されている、と理解することができるのだ。
(1)異教的な服喪に誘い込まれるな(14:1-2)
つまり、1,2節は、約束の地カナンに住む先住民、つまり近隣の者となった人々が、行っている宗教的習慣に乗ってはならない、ということだろう。「死人のために自分の身を傷つけたり、また額をそり上げたりしてはならない」し、「忌み嫌うべきものを一切食べてはならない」。神は「あなたを選んでご自分の宝の民とされ」ている。神は、私たちを宝とし、主の子どもとされているのだから、カナンの地の異教的な風俗習慣、つまり喪において具体的にペリシテ人たちがしていたような頭をそるなどの行為に誘い込まれてはいけないし、神に愛されている子にふさわしい振る舞いを考え歩みなさい、という。
(2)異教的な食事に誘い込まれるな(14:3-21)
続いて、神の子は、忌み嫌うべき物を食べてはならないとする(3-21節)。しかしこれも単なる食生活習慣の問題ではない。宗教的な宴に誘い込まれることへの警告である。レビ11章にも、獣類、魚類、鳥類について食べてはならないものがリストアップされている。それらは、シリヤやカナンでは聖なるものとされ、いけにえとしてささげられ、食されていた。しかし、そうした異教的習慣に誘い込まれてはいけない、というわけだ。また子やぎをその母の乳で煮ることもカナンの先住民が多産の女神アシェラに対して行う宗教的な習慣であり、神に愛されている子にふさわしいものではない、という。異教の民と区別された生活をする、それによって神に愛されるというのではなく、神に愛されているからこそ異教の民とは区別された生活が必要なのだ。
そういう意味では、知らず知らず、異教的なものに誘い込まれ、乗っかっている、ということがあるだろう。異教的な社会の中で、神の新しい命に与り、キリスト者として生きようと決意しても、その生活が一向に変わらないというのは、こうした異教的な誘いに、当たり前に乗っかっている部分があるからだろう。私たちは、どこかで自分の新しい価値観に沿った生き方に自分のあり様を変えていく必要があるのだ。
なお聖書が教える神の民としての文化は、必ずしも西洋的な文化と同じではない。キリスト教と言えば、日本人は欧米の宗教というイメージを持つが、モンゴル人にとってはそうではない。彼らにとってキリスト教と言えば、まずイメージされるのはギリシア正教であり、ロシア的なものである。つまり、私たちは、キリスト教といえども、それぞれ人によって異なるイメージや先入観を持っているのだ。そこで自分がどんな価値観で物事を見ているのかを理解すべきなのだろう。今持っているキリスト教信仰のイメージは、聖書それ自体から形づくられているものなのか、それとも、生まれ育った国の文化で養われたイメージで見ているのだろうか、西洋的なものか、あるいはロシア的なものから見ているのか、自分自身が持っている価値観をよく洞察し、識別していくことだろう。そういう営みがあってこそ、私たちは、正しい聖書信仰に生きていくことができるのだし、知らず知らずにその地域の中に浸透している宗教的な誘惑からも免れるのである。
(3)十分の一と分かち合い(神の共同体を形づくる)
22節からは、十分の一を毎年ささげるべきことが教えられる。それは、「いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶ」(23節)ためであるとされる。ささげることは、私たちの手の業が神の主権のもとにあり、主にその管理を任されていることを認める行為だ。しかしこれは、極めて現実的なことを語っている。結局、全ては経済学であるといわれるが、エジプトの奴隷から解放されて、荒野の40年を過ごし、烏合の衆であった彼らが、国家を建設するとなると、そこには当然、国家予算というものが必要になるのである。どうやって国の財源を確保するか。どうやって神の民としての共同体を築く財源を確保するかである。彼らが教えられたのは、わかりやすく言えば皆がしっかり税金を納めるということであった。皆が十分の一を負担し、近隣の共同体とは区別された、まことの神を拝み、まことの神に従う共同体であり国家を作り上げていく、そのための費用を皆で平等に負担する、ということだった。
そういうところから理解していくと、この箇所を今日的に適用しようとするならば、献金額をいくらにするか、それは「十分の一」というお話ではなくて、皆で異教的な社会の中で、神の共同体を築き上げていきましょう、そのための費用は皆でしっかり負担していきましょう、という勧め受け止めることができる。確かに、教会に集う一人一人が教会財政のことを心がけなければ、一体誰が考えてくれるだろうか。この世の社会が教会の存続を考えるわけがない。教会の存続は、神を信じる一人一人の肩にかかっているのである。
「主が御名を置くために選ぶ場所」が遠く離れているというのは、いわゆる離散ユダヤ人を想定した規定である。十分の一や、初子を持って行くことができない距離に住んでいて、年一度の過越しの祭りにささげ物を持って行く場合、お金に換えるように指示される。それを、目的地で、「あなたの願うもの」に換えてささげなさいという。神に何かをささげられないような理由があるかもしれないが、適切に代替えすることも考えなくてはいけない。なぜか、結局、献金は個人がいくら献げるか、という問題ではなく、皆で力を合わせて神の共同体を建て上げようとする志の一致が大事だからである。献げることについてあれこれ言い訳をするのは、結局、個人的な義務を果たさない以上に、兄弟姉妹を愛する心に欠いているのである。
だから、献げるだけではなく、分け与えるべきことが語られる(28,29節)。これは、「レビ人や、在留異国人、みなしご、やもめ」に対する配慮として三年ごとに十分の一を分け与えることを語っている。みなしご、やもめに対する配慮は、よく考えられることである。しかし、聖所の奉仕のために献身し、自らその生活を支えるすべを持たないレビ人対する配慮も忘れてはいけない。今日で言えば主に献身している牧師の生活をしっかり支えることだろう。その人たちは、聖書の価値観に基づいた神の共同体を建て上げる中心的な存在として立てられている。その人たちを教会が支えことによって教会もまことの神の共同体として建てあげられていくことになる。しっかりとした配慮あるところに祝福もある。

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