申命記28章

申命記28章 祝福とのろい
皆さんおはようございます。28章は、第三の説教の締めくくりであり、これまでの一連の文書の締めくくりというべきものです。神との関係が、人生において全てであることを教えられます。イエスも神の国と義をまず第一に求めよと語られたように、神の支配の中にいかに生きていくか、そこが私たちの歩みを決定するのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
2)祝福とのろい
(1)恵の故の警告(1-2)
主の契約に従順であるならば祝福(1-14)が、不従順であるならばのろい(15-68)が、下される。28章は、契約に対する態度に基づく主の祝福とのろいが明らかにされている。そして、一連の文書の締めくくりに当たり、決断を要求している。
 まず、神に従順な者たちに対する祝福は、あらゆる生活の領域に及ぶ。自身から生まれる者も、地の産物も、家畜が産むものも、さらにはかごもこね鉢までも祝福される。入る時も出ていく時も祝福される。私たちのあらゆる手の業と労働は祝され、私たちに敵が立ちはだかることはなく、周囲の人々に確かに祝福の神がおられることを証しされる(9,10節)。
また注目したいところは、従順の勧めは、単に個人に対してではなく、民全体に語られている点である。民がこの契約に忠実であるなら、神は民を祝福される。そして、その民は、神を信じない民に、まことに生きておられる神を覚えさせ、恐れとおののきを与えることになる(9-10節)。神の民が一丸となって、神のことばに従順になることの重要性がある。個人主義的な考え方に慣れた私たちには、あまり思いもしないことかもしれない。教会へ行くのは、個人の問題であって、個人の霊的な成長のためであって、と考えている事が多いのではないだろうか。しかし、信仰を持つようになったなら、聖なる主の民の一員であるという意識をもって、教会に集い、共に主の契約に忠実であろうとする態度を育てて行く必要がある。そして、共に祝福に与る、共に恵みに与り、右にも左にもそれず、神に従っていく、そのようなしっかりとした横のつながりをもっていきたいものだ。従順は、私たちを高くし(1,13節)、富ませ(3-6,8節)、守る(7節)のである。
(2)祝福(3-14)
またこの主の祝福の約束は真実である、という前提で読む必要があるのだろう。神のことばは必ず現実となり、約束は成就される(ヘブル10:23)。だから約束を守る方の御声によく聞き従いなさい。そうすれば約束どおりに祝福される、と言う。
(3)のろい(15-68)
一方、不従順は、神のさばきとのろいをもたらす。15節からの最初の4節は、祝福に対応する。私たちは低くされ(33、43、44節)、貧しくなり(30、38-42節)、脅かされる(48-68節)。そののろいは実に多様である。最悪に思われる点は、神に捨てられるだけではない、「敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい」(68節)とあるように、この世からも見捨てられる、ことだ。
実際これ等は皆、イスラエルの歴史に起こったことである。イスラエルが神に従順であろうとして、神に心を向けた時に、イスラエルはエジプトを脱出し、カナンの地を征服し、王国を築き、神殿を建設し、神の祝福の恵みに与った。しかし、イスラエルが分裂し、神に逆らう王が現れてきた時に、イスラエルは弱体化し、貧しくなり、脅かされていった。教会も同じだろう。神の民が心から、神の戒めを覚え、皆でこれに仕えようとするならば、その教会は神の祝福を受ける。しかし、そうでないならば、弱められていく。今日、日本の教会が神に立てられた権威を尊重し、牧師と共に神に従い通そうと心を決する時に、神は教会を高くし、富ませ、守られると言えるだろう。今日の教会に求められているのは、この連帯の従順であり決断である。連帯して、右にも左にもそれず、神に従っていく心を共有し合うことである。主の祝福に共に与る民とならせていただきたいところだろう。

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