詩篇37篇

37篇 主を待ち望め

<要約>

おはようございます。今日の詩もアクロスティック詩、技巧的な詩であり、記憶すべき重要なメッセージを持つものです。苦難に負けて、自分を台無しにすることなく、むしろ、正しき者に報いてくださる神に信頼し、誠実を養い、信仰によって支えられ、安きを得る結果を待ち望みたいところでしょう。正しい者がないがしろにされることはないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

この詩もヘブル語ではアクロスティック詩(行頭の最初の文字がアルファベット順に並ぶ詩)であり、新改訳2017では一つのアルファベットで四列の塊となり、ヘブル語のアルファベット、アーレフからタウで始まる冒頭の詩でまとめられている。極めて技巧的な詩であるが、日本語訳ではそこまではわからない。この詩をもとに、パウロ・ゲルハルトがコラールを作詞し、それはさらにバッハによってマタイ受難曲に組み込まれている。キリスト教史の中でも、重要視され、繰り返し、記憶すべきものとして取り上げられてきた詩である。確かにそれはダビデ晩年の作で(25節)、人生を振り返り自らの教訓を語るものだ。主旨は明快である。たとえ悪者が栄えても、それは一時的なもので、真実に歩む者が必ず地を相続する、と。

しばしば社会の現実は、悪者の支配が一時的であると聞かされても、むしろ永遠に続くように思われることがある。真面目に生きてもしょうがない、武骨な人間は損するだけで、報われない、それがこの世の中なのだ、と思わされるようなことがあるものだろう。しかしそれがまさに、「私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く」というようなもので、悪しき者に振り回されている姿なのである。ダビデは言う。「悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから」(1,2節)。

2.誠実を養え

続けてダビデは言う。「主に信頼し、善を行え、地に住み、誠実を養え」(3節)新共同訳では、後半「この地に住み着き、信仰を糧とせよ」となっている。口語訳では「この国に住んで、安きを得る」となっている。後半の訳は「地に住む」以降それぞれ異なっている。ヘブル語の動詞ラアアーは「養う」、「草を食む」などと訳される。名詞エムナーは「誠実」「安全」「確かさ」など意味に幅がある。地に住みつくというのは、基本的に悪者から逃げ回ることは止めよということだろう。恐れずに、その地に住み着けということである。問題は後半。「誠実を養え」は、悪しき者に振り回されない誠実な信仰生活を深めていけ、ということなのだろう。36篇との連続性を考えさせられるところである。新共同訳の「信仰を糧とせよ」は、信仰によって支えられて、苦難を乗り越えよ、と勧めているようだ。口語訳の「安きを得る」は、踏みとどまれば必ず祝福を得るから、という励ましに聞こえる。いずれにせよ、ダビデはこれを晩年に、しかもアクロスティックに詠んだのだから、体験的な教訓となっていることは確かである。悪しき者に振り回されず誠実な歩みを深めよ、ただ信仰によって支えられよ、勝利は幻ではない、とダビデが語る内容は深い。ダビデはサウルの元から逃亡した日々を思い起こし、今やイスラエルの王として安らかな晩年を迎えている。そこから、悪しき者に振り回されるような苦難にある人々に、主の祝福の約束は確実であり、私も経験したことだが、逃げ回らず、主の時を待て、と読者を励ましている。

3.主にゆだねよ

5節、「あなたの道を主にゆだねよ」主に信頼することだ。あなたの正しさを明らかにするのは主であってあなたではない。あなたは怒ることを止めて憤りを捨てよ(8節)。後は繰り返しである。主によって、人の歩みは確かにされる(23節)。この確信に立つことだろう。

悩まされる時があっても、自分の感情に振り回されないことだ。自分が崩れることを許さないことである。むしろ、主を待ち望め。神の道に立て。そして善をおこない、安きを得る結果を待ち望み、主の祝福を信頼することだ。「主は確かに彼らを助け、彼らを解き放たれる」と、あらゆる人生の山谷を乗り越えてきた年寄りの達観したことばに心を留めたい。実に、主に私たちの救いの鍵がある。主の元に遜り、主の取り扱いに自分自身を委ねていく者であろう。

 

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