詩篇38篇

38篇 私の救いよ

<要約>

おはようございます。自分に非があると思う時に、私たちは何もかも、先行きに希望はないと思うことがあるものでしょう。しかし、神が愛であり、恵み深いとするならば、神の祝福は決して私たちの状態によるものではありません。もし、私たちが神に愛されるにふさわしいので祝福されたとしたら、それは報酬でしかないのです。神は報酬ではなく、あわれみと恵みを注がれるお方。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「記念のため」は、「思い出させるために」を意味する。ダビデは、自らの信仰の足跡を残し、教育的な意味合いを込めてこれを作っている。礼拝において主を覚え、教訓とするために作られたものなのだろう(1歴代誌16:4)。

この詩編は、悔い改めの詩編の一つに数えられ、背景的にはバテシェバの出来事の直後、順序的には詩編6篇に続くものと考えられている。この時ダビデは、身体的な病と、罪意識の苦しみにあったようだ。確かに、病の中にある時は、まるで屑鉄のような、役立たずの体を引きずりながら、あれこれ内向きに物事を考え、そこから抜けきれない辛い時を過ごすことがあるものだ。そして、そのような時には、普段なら気にも留めない些細に思うような罪が、大きく重しとなってのしかかってくるものである。古き罪や咎、自分の思慮のなさ、配慮の足りなさ、あれやこれやが、後から後から思い出され、洪水のように押し寄せ、たましいが押しつぶされそうに思わされるものだろう。神の激しい怒りと懲らしめで、自分が消滅してしまいそうに思わされる時である。ダビデも同じであった。そこでダビデは言う。「わたしを責めないでください、あなたの大いなる憤りで、私を懲らしめないでください」(1節)。辛うじて揺らめいている命の灯が吹き消されるような状況、「病」つまりツァラアトに冒され排斥された状況、家族からも見捨てられたような状況がある(11節)。敵は、自分の破滅を確信し、冷ややかに成り行きを見ている(12節)。まさにどん底のどん底に陥っていく状況がある。

2.ダビデの祈り

ダビデは、自分の罪や愚かさを率直に認めている。弁解もしない。そしてただ自分の今の苦境を神に訴え、神を待ち望んでいる(15節)。心身弱められる状況にあって、人はどうすべきか。あの罪、この罪が思い出され、自分の愚かしさに苦しめられる時に、どうすべきか。ダビデは一つの教訓を提示する。弁解せず、ただ主のあわれみを待ち望むことである。

パウロは、信仰による救いを例証して、アブラハムとダビデの二人をとりあげている。(ローマ(4:1-8)。アブラハムはいささか正しい人が信仰によって救われた代表である。ダビデは、全く正しくない者が信仰によって救われた代表である。「不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪を認めない人」(4:7)自分には、神のあわれみを請う何の根拠もない、相応しいのは、神ののろいである、と思わされることがあるだろう。しかし、そうではない。何らふさわしい理由も働きもないのに与えられるのが、神の恵みであり、神の愛である。神の恵みと愛に、厚かましくも、期待することが許されている。

体も心も病に蝕まれ、それがいかなる理由であれ、自分の破滅を思う状況に追い込まれることがあっても、それは決して終わりではない。たとえそれが神の懲らしめのように思われても、神に見放され、望みが失われることはない。教訓とすべきは、そこであえて神のあわれみに請うことである。「主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠く離れないでください。急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ」(21-22節)とダビデにおしえられたとおりに祈ることである。虫がいい話と思われようとも、人生に再び活路を見出したければ、神のあわれみ深さに寄りすがる他はないし、神はそれを拒まれない。不法な者を不法な者として切り捨てるのではなく、悔改めを待っておられるのが神であるし、神の愛は、私たちが思う以上に、計り知れない豊かさがある。神に心を開き、呼びかけよう「急いで私を助けてください。主よ。私の救いよ」と。

 

 

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