雅歌1章

雅歌1章 最も優れた愛の歌
おはようございます。今日から雅歌に入ります。伝道者の書もそうでしたが、事にクリスチャンは、新約聖書的な発想をもって、伝道者の書を読みがちです。雅歌も同様です。私たちの考え方の枠組みを一旦取っ払って、無色透明な思いで、雅歌を読み始めてみましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.雅歌について
雅歌はヘブル語ではシール・ハシーリーム、直訳すれば「歌の中の歌」である。語法的に単語を二度繰り返せば、最上級となるから、「最も優れた歌」という意味になる。あらゆる本の歌の中で最も優れた歌、ということなのだろう。
伝統的にユダヤ人は、この書が、イスラエルに向けられた神の愛を主題としている、と考えてきた。キリスト教会では、個人また教会に対するキリストの愛を伝えるものとして読んできた。この歌の中で最も優れた歌が、私たちに何を語るのか、改めて探ってみよう。
そこでまず、どの節が誰のセリフなのかを整理しながら読んでいきたい。ちなみに一章の場合、男性のセリフは(9-11、15,17節)、女のセリフは、(1:1-4a、4c、5-7、12-14、16)、そしてエルサレムの娘たち(1:4b、4d、8)となる。
2.まだ頂点ならぬ愛
 「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに(1節)」女の思いが語られる。もっともっと自分を夢中にさせて欲しいという(2、4節)。自分が愛されていることを心底深く感じたい。恋の始まりだ。5節、「エルサレムの娘たち」は二人の愛を見守る者たちと考えてよい。女が、エルサレムの娘達に語りかける。自分の黒ずんだ皮膚の色を、ケダルの天幕の色と同じであると。ケダルは、ヘブル語で、「黒い」「浅黒い」を意味し、パレスチナからメソポタミヤまで広がるシリヤ・アラビヤの砂漠地域と、黒やぎの毛で作った天幕で生活した遊牧民族を指すことばであった。シュラムの女は自分の肌が黒ずんでいること、しかしそれは日焼けのせいであるとする。自分の魅力に自信がない、ということだろう。そんな自信のなさが、一層、男を恋い慕わせるのである。そして愛する男がどこにいるのか、と尋ねさせている(7節)。8節、間奏曲のようにエルサレムの女たちの答えが挿入される。一緒にいたかったら、彼の仕事を手伝うことだ、と二人の心の距離が未だ遠く、愛の頂点に辿り着いていないことをからかっているかのようだ。しかしそれによって、読者の目は、二人の愛にさらに注目する。男が応答する。男も女を慕っている。ただその関心は、女性の外見にあり、質素な飾り物をさらに豪奢に飾り立てたいという(10節)。しかし女の思いは、男の香、男そのものである(13節)。いずれにしろ、間奏曲は、互いに互いの虜となり、夢心地になっている愛の対話を強調する効果をもたらしている。16節は、女の応答である。「私たちの寝床も青々としています。家の梁は杉の木。」は、二人の愛の営みが、日蔭のあるところならどこでも、と言う。当時の牧畜を日常とする環境ならではの舞台設定だ。愛は感情の発露であり、激しさを秘めている。それは時と場を忘れさせてしまう至福である。今回は、説教の常套句であるキリストの愛を語るのを控えて、さらに次へと読み進むこととしよう(続く)。

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