マルコの福音書15章

マルコの福音書15章 イエスの十字架の意味
1.イエスの裁判(15:1-23)
当時のユダヤは、ローマの支配下にあり、死刑を科す権限は認められていませんでした。そこで、ユダヤの最高裁判所ともされるサンヘドリンの議会は、イエスの身柄をパレスチナの行政長官であった「総督ピラト」のもとへと送ったのです。しかしながら、イエスに対する裁判は、すべて正式な手続きを欠いたいいかげんなものでした。たとえば重大な犯罪の場合、逮捕は日中に行われなくてはなりませんでしたが、イエスのそれは夜でした。死刑が予測される評決は、裁判と同じ日にしてはならず、評決者は、証言を聞いた後一度家に戻り、3日後に再び議会に集まって、被告人の証言に耳を傾けてから判決を下すことになっていました。さらに判決は若い議員から年長の議員へと、一人一人順に有罪・無罪を投票するのですが、イエスに対する判決は一斉採決でなされたのです。
イエスの裁判はどう転んでも有罪以外にはありえなかったのです。ピラトは、そんなユダヤ人の陰謀を見抜いて、14節「あの人がどんな悪いことをしたというのか」と人々に問いかけます。しかし、人間は複雑なものですね。公正な裁判をするはずのピラトも、群集の機嫌をとろうと明らかに無実とわかるイエスを、要求通り十字架刑に処するのです。しかしピラトばかりではありません。この時、イエスの周りにいた人々は皆同じです。嘲弄する兵士たち、ののしり道を行く人々、あざける祭司長たち、そして遠巻きに傍観者となって事の成り行きを眺めている人たち、その場の勢いに飲み込まれ、思考停止になっている人間社会の最も矛盾した状況が描かれているのです。そのような状況にありながら、ただひたすら無言で、神のみこころに服していくイエスの姿が印象的ですね。
2.イエスの十字架刑(15:24-
ユダヤ人の死刑は、通常石打ちで十字架刑は、奴隷あるいは外国人に課されるものでした。ただ、死体は夕方まで「木」につるしてさらしものにしました。それは、受刑者が神の怒りと呪いの下に置かれていることを明らかにするためです。ですから祭司長たちは、イエスを同胞ではなく異邦人同様に扱い、さらに、神の子と言う主張を退け、神に呪われた者というレッテルを張ったのです。イエスは最も激しい憎しみと怒りを向けられたのでした。これは痛いですね。イエスは、肉体的のみならず、精神的にも最大の暴力を振るわれたのです。イエスの心と体はぼろぼろにされました。しかしそれでもイエスは、その苦しみを和らげるために受刑者に与えられる没薬を飲もうとはしませんでした。なぜなら人類の身代わりとなって、神の呪いを一身に受けられるのが、イエスの使命だったからです。イエスは一つの苦しみも誤魔化さず受け止め、さらに34節、息を引き取る直前には、永遠の神にすら見捨てられる罰を受けられたのです。このイエスの身代わりの苦しみの故に、全ての人の罪は赦され、神の呪いからも解き放されました。救いに必要なことは、イエスがすべて成し遂げてくださいました。何一つ加えるべきものはありません。難行苦行も、出家も寄進も、どんな宗教行為も不要です。2000年前の十字架は、神との和解をもたらし、あなたの人生から神の呪いも怒りも既に取り去ったのです。その一部始終を目撃したローマの百人隊長は言いました。39節「この方は本当に神の子であった」神に呪われた神の子、その方を信じる者は救われているのです。では今日もよき一日となるように祈ります。