詩篇79篇

79篇 あなたの偉大な愛によって
おはようございます。詩篇79篇は、ティシュアー・ベー・アブ、つまりアブの第9日、イスラエルで最も悲しい日と位置付けられる日に読まれるものです。それは、おそらくバビロン捕囚を背景として詠まれた詩で、神のあわれみ深い本質に信頼し、神の回復を求める歌となっています。神があわれみを拒まれるとしたらそれは神の沽券にかかわることでしょう。神との関係は決して断ち切られることのない、愛の関係であることを覚えたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
「神よ。国々は、あなたのゆずりの地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを瓦礫の山としました。彼らは、あなたのしもべたちの屍を、空の鳥の餌食とし、あなたにある敬虔な人たちの肉を、地の獣に与え、彼らの血を、エルサレムの周りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。」(1-3節)ユダヤの伝承によれば、この詩篇と137篇は、アブの月の9日に朗誦された。アブの月は、ユダヤ暦第五の月で、太陽暦の7-8月にあたる。その9日は、五つの悲劇が起きた、最も悲しい日と位置づけられている。その一つに、バビロン捕囚が数えられ(実際には、第五の月の7日に起こっている(2列王25:8,9)が)ているため、この詩は、詩篇74篇と同様に、バビロンに征服されたエルサレムの惨状について語っていると考えられてきた。都市は瓦礫の山となり、多くの住民が虐殺され、死体を葬る者もない。それらは野ざらしとなり、鳥や獣のえじきとなっている。何という光景だろうか。あまりにも不気味で、悲惨である。なぜ神はこんなことを許されるのか、詩人は詠い始める。
2.神の怒りの前に
5節、詩人は、これを神の裁きの故であると告白する。つまり、この惨状を目の当たりにして、詩人は、自分たちの神への背信を認めざるを得なかったのである。しかし神の怒りは、実に激しい。神に背いたことは決定的な破壊をもたらした。それは望みすら焼き尽してしまうものであった。だから普通は、なおも神に望みを抱こうなど、難しい、と思わされるものではないか。自分に祝福など残されてはいないし、たとえあったとしても、これだけ激しく痛めつけられる現状を思えば、求めたところで何かが変わるわけでもない、と。
しかし、人は生きている限り、回復を求める他はない。ただ神の哀れみにすがる他はない。聖書の神は、あなたが思うような神ではないのだ、と詩人は教えるのである。たとい「ひどくおとしめられている」(8節)と思わされることがあっても、この詩篇は、人は生きる限り自分の幸せを求め続けてよいのであり、神に愛され、回復されることを求めてよいと語り掛けてくるのである。たとえ回復される望みを抱く根拠が、自分の側には何もないとしても、人は諦めてはならない。人は神のあわれみを求める権利を失ってはいない。それは、人の側ではなく、神の側にその根拠があるからである。詩人は祈っている「私たちの救いの神よ。私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに」(9節)。神の栄光の御名がそしられないため、神は人に哀れみを拒まれない。人がその回復を期待しうるのは、その人が回復に与るふさわしさを持っているためではない。キリストの十字架の契約のため、神の永遠に変わらぬ祝福の約束のためである。
神は、罪を裁かれるお方ではあるが、その本質においてあわれみ深い神であり、悔い改めた者に対する回復を拒まれない。神があわれみを止められることは、神の沽券にかかわることである。だから人が悔い改めて真に神に向き直るならば、神は、周囲のあざけりを取り消すように働いてくださる。「あなたのあわれみが、速やかに私たちを迎えるようにしてください」(8節)。「あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に果たされますように。」(10節)厚かましく思われようであろうとも、人は祈らねばならない。神はあわれみ深いのだから。そして「死に定められた人々を、生きながらえさせてください」(11節)、と定められているものを、そうではないものとしてくださるように、祈らねばならあに。誰もが、当然のことと見なす結末を、そうではないもののようにする。それは、天地創造の神があればこそである。無から有を生み出し、あるものを無いもののようにされる神がおられればこそである。
悔い改める罪人に、回復と感謝の機会を得させて下さる神を覚えたい。そして最も悲しい日に、最もあわれみ深く対処してくださる神を覚え、神に求めて歩ませていただこうではないか。