詩篇81篇

81篇 祝福を受けよ
おはようございます。新年初めての聖日を皆さんはどのように過ごされるでしょうか。ここは、やはり神を第一とし、神と安息をゆっくり味わう一年のスタートを切りたいところではないでしょうか。そして神に献身した新しい歩みをスタートさせ、昨年の自分よりもさらに霊的に向上したいところでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
 81篇は、祭りへの呼びかけから始まっている。これまでの詩篇、ことに第一巻、第二巻は、個人的に神に向い呼びかける、求めるスタイルが多かった。しかしこの詩篇は、会衆を神へ向かわせるための呼びかけに特徴がある。
5節から推定してこの祭りを春の過ぎ越しの祭りとする説もあるが、3,16節から秋の仮庵の祭りと考えた方がよいのではないか、と一般的には言われている。というのもイスラエルの春と秋の大祭である過越しと仮庵の祭りは、どちらも、満月の祝いである。だから、どちらとも言い難いのだが、16節、最良の小麦、岩から滴る密、と収穫を予測させることばは、秋の仮庵の方が適切だ、というわけである。
なお古代イスラエルでは太陰暦を用いていたので、月の満ち欠けが、時の基準となっていた。だから、新月の日は、見張り人が月の昇りをサンヘドリン議会に報告し、議長が確認して、エルサレムのオリーブ山からのろしを上げ、次々と、そののろしを見た集落がさらにのろしをあげて、イスラエル全域に新月の日を伝えたと言う。こうして新月は、月の始まりの日としてお祝いされ、全き献身を表す全焼のいけにえが献げられた(民数記28:11)。こうして、過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りを含めた満月そそして新月に「われらの力であられる神に喜び歌え」と著者は呼びかける。イスラエルの歴史的に記念すべき日のみならず、月二度の特別な日に、喜び歌えと言うのである。
2.喜び歌え
大切なのは、一年のリズムの中で、彼らは神を賛美する特別な機会を意識した、ということだろう。年に少なくとも2度。そして月に少なくとも2度。そして週に一度の安息が、そうである。そのような意味で、クリスチャンもまた、そのような聖書的な季節感覚、リズムを持って、やはり神の民として、神を心から仰ぎ、神を賛美する生活習慣を持って行くことが大切なのだろう。
けれども多くの人は、信仰を持っても、神を中心とした生活リズムに変わっていくということはない。相変わらず、信仰を持つ以前の生活リズムの中で、礼拝は取ってつけたような位置づけであったり、クリスマスやイースターの特別行事もお付き合いとしてなされていることが多かったりする。
そのような意味で、神を第一とした生活スタイルを、確率することは、信仰生活を始めてまず意識されなくてはならない。ただ、そのように言うと、どうしても形ばかりそうしてしまう、結果ますます窮屈な信仰生活をお義理で果たすだけになって、やがて教会に行くと肩が凝って、めちゃストレスが溜まって、家に帰ってくるとゆっくりする、などというクリスチャンになってしまったりする。
3.神を喜ぶ
そこで、私は、信仰の本質って何かというところから、自分の生活を整えることをお勧めしたい。6-7節を読むと、やはり詩人は、礼拝の中で、神の恵み深い経験を思い出している。そして、同時に、8-11節では、満たしてくださる恵み深い神を仰いでいる。これが礼拝の本質的な部分である。これはお付き合いでするのでも、義務を果たそうとしてするものでもない。恵み深く、「最良の小麦を食べさせる、あなたを満ちたらせる」(16節)と語る神に会いたさで教会という場所は来るものなのだ。そしてその恵みを一緒に味わいましょうと兄弟姉妹を励まし合いながら集まる場でもある。そこができていれば、教会は、二重丸、花丸だろう。だから、礼拝こそが満たされ、くつろぎ、喜びにあふれる場で、そこからストレスの多い、家庭?職場?地域?に戻って潤いを与えるというのが、本当なのだろう。大切なのは、教会でその味わうべきことをちゃんと味わっているかである。そこができずに、教会で形ばかり宗教的な営みをしている、ということがあったりはしないのか。もちろん、教会には、皆で手分けして、色々と物事を動かしていかなくてはいけない部分もある。詩人が詠わないようなこともある。けれども、そこはお互いに信頼し、お互いに負担のない効率のよいシステムを共に考え作り上げていく愛が試されているところで、躓くようなものではない。大切なのは、私たちをエジプトの苦しみから導き出したお方、私たちを罪の泥沼から救い出してくださったお方にしっかり心を向けて、礼拝の恵みを深く味わっているかどうかである。5節、「知らなかった」と訳されたヘブル語はロー・ヤダーである。新共同訳では、「思いがけない」と訳しているが、ヤダーは一般に神の知恵を意味する。ここは神が啓示的に知らされることを言う。つまり「思いがけない」という感覚もあるかもしれないが、人間が全く知りえない真理を悟りえた、ということである。おそらく、教会に通っていれば、6節以降のことは、繰り返し聞かされているし、信仰というのは、そのようなものだろう、と考えている。けれども、それが真に心の奥深くに降りてきて、自分の信条となり、信念となるかどうかは別である。神が啓示的に、私たちに諭しを与えるのでなければ、決して私たちの内側から真の信仰は起こりえない。
その神が、さらにこう語りかける「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(10節)神は、小さな雛鳥が親に餌を求めて口を開ける、そんなイメージを用いている。大きくあんぐりと口を開けると、せっせと親鳥が、その口を満たそうとするイメージである。親鳥に求めて見よ。そのように試してみよ。ありとあらゆる祝福はおまえのものになる、というわけだ。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ちたらせよう」(16節)これは、大いなる約束である。神は、私たちをいつまでも罪人として扱われるわけではない。従順と共に祝福を受けよ、と語られる。この神に、今日も期待しようではないか。