詩篇78篇

78篇 天からの祝福
おはようございます。今日は詩篇119篇に次いで長い詩篇と言われるものですが、イスラエルの反逆の歴史と神の大いなるあわれみを振り返る文脈の中に、悟るべき真理があると言えるでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇は、詩篇105、106、136と共に、国民的賛歌と呼ばれる四大詩篇の一つとされる。また119篇に次いで、最も長い詩篇とされる。概略は、最初にイスラエルの出エジプトにおける荒野の放浪が語られ(9-31節)、エジプト人に襲った災い(44-51節)とエジプトからの脱出とカナンの地の占領(52-64)、そして統治者ダビデの出現(65-72節)、とまとめられている。
時代的には、69節、神殿があること、また、70-72節ダビデの統治を意識していること、捕囚に関する記述や北イスラエル滅亡に関する記述のないことなどを考えれば、それ以前の時期であろうと考えられる。
カルヴァンは、イスラエル10部族がダビデ王朝に反旗を翻し、イスラエル北王国を形成したことから、北王国に神の選びに従うように警告する詩と考える場、ダビデ以前のイスラエルの歴史を振り返っていること、そして、67-72節は、神がイスラエルの王としてサウルではなくダビデを選ばれたことを示し、イスラエルの新しい歩みの上に過去の失敗を繰り返すことのないように、という霊的な警告を与えようとしている、と考える方が自然なようでもある。ただ、言いたいことは、1-8節と32-43節に集約されており、それは単なる歴史的な回顧ではなく、霊的な教訓を与えようとしており、歴史に介入される神を認め歩むことの重要さが語られている。
2.知恵への招き
2節、新改訳は口語訳をなぞって「私は口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう」と訳すが、新共同訳は「わたしは口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを告げよう」と訳している。1節の「教え」は、ヘブル語ではトーラー、イスラエルの歴史の内に示された神の啓示を意味する。また3節、「それは私たちが聞いて知っていること。私たちの先祖が語ってくれたこと。」そして4節「主が行われた力ある奇しいみわざ」とあるように、ここで語られようとしていることは、昔から言い伝えられてきたことである。5節、「さとし」は単数で、ヘブル語では限定的に「十のことば(十戒)を指しており、それは、神のみおしえの中核部分である。だからここは、昔からの神のみ教えを心に留めるように、と言っている。
ただ「なぞ」と訳されたヘブル語はヒッダー、士師記14章に描かれた祝宴でサムソンがかけた「なぞ」と同じである。また、エゼキエルが17章で比喩的な物語(3-10節)を引用する際に使ったことばである。だから、2節で「なぞ」ということばが敢えて使われたのは、これがイエスのことばとしてマタイ13:34に引用されていることからもわかるように、耳のある者は聞きなさい、という、熟慮すべきことばであったからなのだろう。
3.背信の繰り返し
そこで9節から具体的に、神のみ教えに従って歩まなかった、神に裁かれたエフライムの敗北が語られる(10-11節)。エフライムの退却(9節)は、神への背信の結果であった、と。そして、そのような背信の民に対する神の関わりが語られる。神はご自身の民に、素晴らしい御業をなしてくださった(12-16節)、と。興味深いのは以降、この交互の繰り返しで、詩が詠まれていることである。
(1)知恵への招き(1-8節)、エフライムの背信(9-11節)
(2)エジプトでの主の素晴らしいみわざ(12-16節)、荒野での民の不平(17-22節)
(3)マナとうずらの神の業(23-31節)、繰り返す民の背信(38-39節)
(4)あわれみと忍耐の神の業(38-39節)、贖いの御業を忘れた民の背信(40-43節)
(5)エジプトを裁かれる神の業(44-55節)、偶像崇拝による民の背信(56-58節)
以前ヨルダンに行った際に、荒野の放浪の舞台を訪れ、思ったことがある。彼らはアダムのように何から何まで整った豊かさの中で罪を犯したわけではなく、何もない中、過酷な状況でつぶやき、肉を欲しがり、罪を犯したことである。また、彼らは何もない中で、神の素晴らしい業、神の守りの御手をはっきり見せられている。まさに神は、無から有を生じさせるお方であり、必要なものを備えられるお方であり、それこそ、五つのパンと二匹の魚ではないが、不可能性の中の可能性を見せてくださるお方である。荒野の時は、過酷な試練の時でありながら、そのようなどん底で神の存在を肌身で知る時でもあった。信仰は、そのようなものである。無において、空において、神に不可能はないと言い切る力である。
ただ、イスラエルは、神の業を知り、神の実在を目の当たりにした「このすべてのことにもかかわらず」(32節)、神に反逆し、罪を犯したのがイスラエルの歴史である。私たちも同じようなものなのだろう。私たちは、神の恵みを全く知らないわけではない。それを感じていることも多い。しかし、神が自分に何かをしてくれたとしても、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、不信仰に逆戻りする現実がある。それが、58節までの繰り返しの意味するものなのだろう。
4.神の恵みの選び
しかし幸いなのは、「神はあわれみ深く彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。」(38節)ということだろう。ここに謙虚に、神の恵みにより頼まざるを得ない私たちの現実がある。また、神も私たちが、「肉に過ぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを」わかっていてくださる。神は私たちに期待するが、期待どおりに行動するわけではないこともはじめからわかった上で、私たちを受け入れ、愛してくださる。ただ義なのではなく、恵み深く心を開いて、私たちのために、天の窓から祝福を注いでくださる。
なお、出エジプトの時代、民の指導者はレビ族のモーセであったが、荒野の放浪生活の中で、残されていったリーダーシップは、エフライム部族のヌンの子ヨシュアとユダ部族のエフネの子カレブとなった。その後、約束の地カナン入国においては、ヌンの子ヨシュアがリーダーシップを取るが、それは一時的であり、ヤコブの祝福(創世記49:9、10)に予告されたようにユダ部族に代わっていく。そして、サウルからダビデの時代になって、ユダ、シオン、ダビデの選びは確定された(67-72節)。ユダの選びは、今ここでの選びではなく、歴史の中で示し続けられてきたことである。そしてそれは、メシヤ来臨の約束と深く結びついた永遠の選びでもある。キリストにあるとこしえに変わらぬ神の恵みを覚えて、今日も神に遜りつつ、期待し、歩ませていただこう。