2サムエル記2章

2章 ダビデユダの王となる
<要約>
おはようございます。今日の箇所は、聖書地図を取り出して確認したいところですね。面倒と思えるこのような作業が聖書の世界を面白くし、通読を止められなくさせてくれるのです。彼らがどのような状況にあり、何を考え、何を求めたか。そこに神がどう働いたか。それが今の私たちに対するメッセージにもなります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.サウルからダビデへ
サウルが死んだ。そこでダビデが主に伺う。自分はユダに戻るべきであるか。神はこれを肯定された。ダビデは自らの部族ユダに進出し、ツィケラグからヘブロンに移り住んだ。ペリシテ人の領地から引き揚げたのである。ダビデはユダの王として迎えられた。
続いてダビデは、ヤベシュ・ギルアデの人々に使者を送っている。彼らがサウルと息子たちの遺骸を取り戻して、丁寧に埋葬したことへの感謝を表明したのである。こうした心遣いに対して、ヤベシュ・ギルアデの人々の反応は記録されていない。実際ダビデに好意をもったとしても、彼らが積極的にダビデを支持できなかったとしても不思議ではないだろう。ともあれダビデは、とんとんとイスラエルの王として迎えられることはなかった。
実際、サウルは、息子たちや軍を掌握する実力者、そして自身の支援者を後に残していた。そしてサウルの軍の司令官アブネルが、サウルの生き残りの子、イシュ・ボシェテをサウルの後継者としたのである。イシュ・ボシェテは、「恥の人」を意味する。しかし、1歴代誌8:33では、エシュバアルと呼ばれている。それは、「主の人」を意味する。彼はマハナイムで全イスラエルの王として擁立された。
こうしてイスラエルには、二人の王が対峙するこう着状態が生じた。さらに、ペリシテ人は強く、遥か北東のベテ・シャンにまでその勢力を伸ばし、イスラエルを北と南に分断するのである。イスラエルの国力は分断し、ペリシテ人がイスラエルを脅かす、混沌とした状況になっていた。
2.アブネルの解決
そこで、アブネルが提案する。彼は、ダビデの軍の将軍ヨアブに申し入れ、いわゆる一対一で戦う勝ち抜き戦を提案した。しかし決着はつかず、むしろ戦いは過熱した。やがて、ダビデの軍が優勢となり、サウル軍のアブネルが追いつめられていく。こうして、ダビデが王となる道筋は、少しずつ整えられいった。神の御計画は、必ず成し遂げられる。動きがたい時代が、着実に動いていく。まさに、私たちが何とかせずとも、神が少しずつ時代の歯車を動かし、あらかじめ計画されたとおりに事が運んでいくのである。
なお、聖書地図を持ち出し、イシュ・ボシェテの軍とダビデの軍がそれぞれ拠点として帰った場所に注意すべきだろう。イシュ・ボシェテの軍は、ヨルダン川を渡ってマハナイムに戻った。そこは、かつて族長のヤコブがラバンから逃れ、兄エサウに会う前に、御使いの軍勢に出会った場所である(創世記32:2)。イスラエルにとっては歴史的に意義のある町であったが、イシュ・ボシェテは、ペリシテの勢力の強い、ヨルダン川西岸の地を捨て、さらにユダと距離を置いたと見るべきだろう。そしてダビデはヘブロンに異動、つまりペリシテとイシュ・ボシェテの軍の間に均衡を保とうとした。ヘブロンは、族長たちの埋葬地であり、ユダの都市の中でも最も重要な町であった。当時の微妙な力関係を思わせる配置である。
さて注目すべきは、サウルの将軍アブネルがダビデの将軍ヨアブに呼びかけたことばである「いつまでも剣が人をほろぼしてよいものか。その果てはひどいことになるのを知らないのか」実に、人が憎しみを向けあうことほど、不毛なものはない。しかし、そんな無意味なゲームに陥ってしまうのが人間なのだろう。教会も例外ではない。人間が集まるところ、皆衝突はありうる。パウロは語る。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」(ガラテヤ5:13-15)。
 本来、神のみこころは明らかであるのに、人は、自らの利得を考えて、決して神のみこころのとおりには生きようとはしないことがある。自分にとって有利なことがあるために、正しいことに目をつぶることがある。なすべきことをわかっていながら、逆のことを支援し続けてしまうことがある。神のみこころに逆らった歩みを、やめられないことがある。最初はサウルのダビデに対する妬みが、悲劇をもたらしていた。しかし今や、サウルの権威にあやかろうとする者たちのむさぼりが、イスラエル全体に悲劇をもたらしている。その結果は、いつまでも剣によって人が滅ぼされる、最悪な結果であった。
 神の栄光を求め、神の国と義を第一とするならば、そのような悲劇は避けられるものだろう。しかしそうできないところに、私たちの罪人としての問題がある。自らの心の内に、神に逆らう罪があると思わされるならば、素直に聖霊の導きに従って、その罪を捨て去りたい。もし、横暴を働こうとする者がいるならば、静かに神の時を待つべきなのであろう。神が遅れることはない。不毛な争いを避けて、ただ主のみこころがなされることに意を注いだ歩みをしていきたいものである。