2サムエル記1章

2サムエル記1章 サウルの死を悼むダビデ
<要約>
おはようございます。今日の箇所では、ダビデの命を狙い続けたサウルの死が伝えられます。長い戦いが終わりました。しかし、ダビデにとってそれは、喜びと解放の日ではなく、悲しみと哀歌をささげる日であったのです。人は愛すべき者であることを思わされるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.サウルの結末
 一人のアマレク人によってサウルの死が知らされた。ダビデは、先のアマレクの侵略に対する反撃で、戻ってきたばかりで、焼け跡を再建していた最中であった。その三日目、彼は、撃退したばかりのアマレク人の若者に、サウルの死を伝えられる。長い間ダビデの命を狙って追跡してきた敵のような存在が葬られたのである。ダビデにとって、それは、胸をなで下ろすような出来事であった、と考えられたのであろう。しかし、ダビデの心は違っていた。ダビデは喜ばなかった。さらに、自らサウルを殺したと伝える、このアマレク人の若者に、ダビデの怒りが注がれた。イスラエルの民は、ダビデの民であり、サウルは、敵のような存在であっても、主に油注がれた者であったからだ。
ダビデは、サウルに手を下す機会が二度訪れているにもかかわらず、手をくだすことはなかった。最初は、復讐心をにじませるいじましい姿を見せるダビデも、二回目はきっぱりと、手をくださない、と心を固めている。ダビデは長い敵対関係の試練の中で、練られ、神が立てられた権威に従うこと、そして神にさばきを委ねることを学んだ。苦難の日々は歓迎されることではない。しかし、神がイザヤに、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ48:10)と語ったように、そのような日々は確実に、ある種の成長と悟りを人間に与える。悩みの日々は貴重な時であると思いたい。
ところが在留異国人であると語るこのアマレク人は、神の民の中にありながら、神の民の価値を学ぶことができずにいた。彼は真の神を覚えることができずにいた。ならば、どうして、神の民であり続ける必要があることだろう。彼は、自分の口から出た言葉の報いを受けているのであるが、神の民に属しながら神の民であることを学ばなかったさばきを受けているのである。確かに、教会にあって、神の民の掟を学び、神の民として生きることがなければ、同じ報いを受けることになる。教会の人間関係は、同好的なものではなく同志的なものである。まさに、目に見えない神のご意思を覚えて共に歩む関係である。人間関係の綱引きの中で生きていくのではなく、神の価値に生きていくのが、神の民なのである。
2.ダビデの哀歌
ダビデは哀歌をささげた。まずそれは、イスラエルの敗北を悲しみ、ペリシテ人がこれをことさら喜ぶことのないように願っている。そして、「サウルもヨナタンも、愛される、立派な人だった。」と、サウルについても、その名誉を認めている。ダビデは、サウルもまた力ある者であったことを冷静に認めていた。最後に、ダビデはヨナタンの死を悲しみ、ヨナタンの愛を「女の愛にまさって、すばらしかった」と評価している。実際ヨナタンは、自分が王子であるという地位に固執せず、ダビデの側について、ダビデを守り、励まし続けてきた。それは、何の見返りをも要求しない、実に純粋な善意であった。ダビデには、自分のために尽くしてくれる女の愛に巡り合う機会はあったはずである。しかし、ヨナタンが示したその愛情に優る澄み切った愛を示した女には出会わなかった、ということである。ダビデは、ヨナタンに最大級の賛辞を送った。
 しかしながら、さらに大切なのは、これがユダの子らに教えるように命じられた点である(18節)。つまりこの詩は、単なる哀歌ではない、苦労を共にしてきたユダの人々への教育であり、戒めなのである。ユダの人々は、すでに、これまでのダビデの様々な苦労を知っていたことだろう。その前提でこの戒めを読むならば、それは、まず何よりも、いかなる勝利も主によるものであることを覚えさせるものである。主を抜きにした戦いに勝利はない。そして、ヨナタンに対する賛辞は、国家を建て上げるのが、要領がよく抜け目のない頭脳集団や勇敢な精鋭戦士ではないことを教える。まさに、見返りを期待しない純粋に澄み切った愛情が、真の国家を建て上げる隠れた力となる。確かに今日の教会を建て上げることも同じだ。イエスの十字架の愛をはじめとして、神の王国は、聖徒たちの澄み切った殉教の血によって建てられるのである。見返りを期待せずに、神を愛し、神の民を包み、支え合う愛による。