マルコの福音書9章

冒頭の一節は何を意味しているのか。「神の国が力を持って到来する」これをイエスの再臨と結びつける考え方があるが、そうだとしたら当時の弟子たちには全く意味をなさないことばである。むしろ、十字架と復活によって完結するイエスの公生涯そのものが、神の国が力を持って到来していることに他ならなかったのである。そういう意味で、一般に変貌山と呼ばれるこの後の出来事は、そのもう一つの象徴的な出来事と理解される。イエスは、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山へと登られた。この山については、種々の説があるものの、結局、ガリラヤ湖周辺のどこかの山、とされ場所は、特定されていない。そこで、イエスの御姿が変わる出来事があった、とマルコは記録する。「姿が変わる」のギリシャ語は、メタモルフースタイ。ギリシャでは、神々が人間に姿を変えること、あるいは逆に人間が神々の姿になることを表現する時に、用いられた特別なことばである。また、イエスの衣が真っ白に輝いたとある。ユダヤで白は、神的な世界を表す色とされており、それは、イエスが世俗を越えた、神的な存在としてご自身を表したことに他ならない。弟子たちは、イエスが神であると確信させられるような超自然的な出来事を体験したというわけだ。となれば、これを変貌と呼ぶのは間違いであるとも言われる。というのも神であられるイエスが人間に姿を変えられたことそのものが変貌であると言えるからだ。それはむしろ、イエスの元々の姿、神として解放された姿であった、というわけである。

ペテロは、この出来事に「恐怖に打たれた」(6節)と言う。それはペテロに、神が何であるかということ、またそのご性質を深く教えるものとなった。確かにペテロは、自分が「キリストの威光の目撃者である」(2ペテロ1:16)と語っている。大切なのは、私たちも、このメタモルフースタイなイエスを目撃する霊的な成熟へと至ることだろう。

それはどのようにして可能になるのか。次のエピソードがヒントを与えてくれる。山を降りると、ほかの弟子たちは、トラブルの最中にあった。彼らは悪霊を追い出せないでいたばかりか、絡んでくる律法学者に対応しきれないでいた(14節)。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、私はあなたがたと一緒にいなければならないのか」(19節)、イエスの苛立ちがストレートに吐き出されている。だがこのエピソードは二つの事を取り扱っている。一つは、父親の不信仰である。父親は「できるものなら」という不信仰を露骨にした。息子を助けたい父親が息子の危機状況にあってなお信仰を抱けないでいるのである。「できるなら、と言うのか」というイエスの叱責に父親は目を覚まされた。ある写本では「涙を流しながら」そして「私は疑う者です。この不信仰な私をありのままにお助けください」と絶叫するのである。適切な信仰になるまで、私たちを変えてくださいと祈る必要はない。まさにこの父のように、助けを受けるには全くふさわしくない、不信仰な私をありのままにお助けくださいと心から叫ぶことである。そしてもう一つのこと、それは弟子たちの不信仰である。それにしても、これだけの奇跡を起こすイエスはなぜに弟子たちに、奇跡的に信仰を与えられなかったのだろうか。まさに律法学者を相手に、打ち負かされている弟子たちは「霊が何度も火の中や水の中に投げ込みました」と言える惨めな状況である。それは、「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」(28節)と無力さを神に訴えなければ行けない私たちの現実に通じる。必要なのは、信仰の行為である祈りである。ある写本には「断食」と加えられている。イエスの弟子に必要なのは、霊的な精進、信仰的な姿勢と態度、そして力を築き上げるための自己訓練であろう。パウロがテモテに牧会者として常に自分自身にも教えることの重要さを語ったように、弟子たちも、自分たちの不信仰を乗り越え、神の人であることに目を覚まし続けていなければならなかった。

だが、神の御国に与っているはずの私たちの現実は、神を信じない人々と同じであり、世俗的な関心に埋没し易い。誰が一番偉いかといった弟子たちの現実に近いのである。イエスは、そんな私たちに、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)と教えられる。ここからは一般的に「謙遜になる」ということが教えられてきた。しかし、「仕える者」と訳されたギリシャ語は「ディアコノス」。これは、当時のギリシャの世界では、食卓の給仕人を意味することばである。つまり、人の先に立ちたいという人は、給仕人になりなさいということだ。重要なのは、もてなす者ともてなされる者の区別である。給仕人は、接待するお客とは別の原理と関心で動いている。ということは、イエスが、給仕する者になりなさいと言われたのは、謙遜に仕えなさいということよりは、別の関心や原理で行動しなさい、ということだろう。次の「子供のようになれ」という命令も、謙遜になれ、へりくだれ、小さな者になれということではなくて、全く関心の置き所の違う者となれ、この世の関心とは違う関心の中で生きていきなさい、ということだろう。この世の序列意識や価値意識とは無関係でいなさい、むしろ神の世界に目を向け、信仰を鍛錬し、磨くような人生にこそ関心を持ちなさい、ということなのだろう。実際、私たちは、神の国へ入るや否や、神に与えられた勝利の冠をお返しすることになるのだ(黙示録4:10)。私たちが地上で得た栄誉も、また天上で得た栄冠も皆、神あってのことである。何一つ自分の力でなし得た者はない。真に謙虚な心は、全ての栄光を主にお返しするのである。キリストを信じることは、キリストのものの見方、考え方を学び、その中に生きていくことを意味している。この世の価値や原理とは全く違った発想で物事を受け止め、理解し、行動していくことを意味している。

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