マルコの福音書10章

1節、これまではガリラヤを舞台とする記録であったが、ここからはユダヤ伝道を記録している(10-15章)。マルコの章立ては単純であるがそれは、神学的、意図的な構成によるもので、実際のイエスが、このようなまとまりのある行動をとったわけではない。実際、マルコは、ルカが記録したエルサレムへの途上の記事(ルカ9-18章)を大幅に削除している。ともあれ、一般にガリラヤは粗野で、国粋主義の強い土壌であり、ユダヤはエルサレムを中心とし、洗練され、都会的で宗教的正統主義の強い背景を持っていた。

そうした中で幾つかの論争が記録されている。まず離婚の問題が取り上げられた。もちろんそれらは、イエスから熱心に教えを受けようとするための議論ではなく、イエスをことばの罠に陥れ、名声を危うくさせるためのものであった。そこでイエスは彼らの質問に直接的には答えず、むしろ結婚の本質的な考え方を示して答えとしている。つまり結婚は神によって創造された人生における第二の結び合わせである。これまで血縁でつながっていた家族の絆が解かれ、それに勝る新しい絆が出来上がる、それはまさに神の奇跡的な導きである。結婚は神の御業による結び合わせなのである。答えを要求しない彼らにはそれで十分であった。しかし弟子たちには正しい理解が必要であった。そこでイエスは弟子たちに離婚についての考え方を説明する。それは先の結婚観を前提とするものだった。つまり意図的な離婚と再婚は神の御前における罪である、と。

次に子ども達に対するエピソードは、挿入的にも思われるが、ここで言わんとしていることは、神の目に価値なき人はいないことだ。またイエスは子どものように素直で単純に信頼する態度を信仰者のあり方として評価している。それだけに、後に続く衒学的で、理屈ぽく信仰を考える金持ちの話は、対照的に配置されていると言ってよい。

彼は一見、信仰について極めて探求的であり、真面目のようだ。しかし彼はあれこれ理屈をこねまわしているが、単純に考えれば、イエスよりもこの世の富の方が大事な人なのである。彼はお金を惜しんで、イエスに従うことのできない人であった。それは、全てをささげて従った弟子たちとは大違いである(28節)。信仰は理屈ではないのだし、あれこれこの世のことに心が分かれるような人では、飛び込むことのできない世界である。だが、世的な祝福とは比べられないイエスの素晴らしさを思えば、子どものように単純に献身していくことができる世界でもある。

32節はイエスの三度目の受難予告になる。結局イエスに従う道は、この世的には栄光に満ちたものではないし、むしろ報われない道である。それはこの世の上昇志向とは全く一線を画するあり方である。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いと言われるエピソードは、この問題を具体的に指摘している。人は目に見える権力や地位を求めようとする。しかし、自らをささげきったイエスの弟子たちが求めるべきことは、完全に自分をささげ尽くすことであり、神の命に服し人々に仕えることである。ただそれは単純に考えられているような滅私奉公ではない。むしろ信仰的な投資である。信仰によって自分の命も体も主にささげ、実を結ぶ人生なのである。報われないようでありながら、天における報いは大きい。霊的な価値に目覚めたもののみが希望を持つことのできる祝福である

最後に盲人バルテマイの物語に注目しよう。彼は、イエスに近づくことを妨害されたにも関わらず粘り強くイエスを求めた。それは、特権的に自分たちの利己的な願いを気安く語りかけるゼベダイの子らとは全く対照的な状況である。実に哀れとしか言いようがない。しかし、彼を救ったのは、イエスを求めた信仰である。祈りは信仰の表現である。実に、私たちは求めるべき方に率直に自分の必要を訴えねばならない。いかなる妨害があろうとも、確かに、主は聞いてくださるお方であることを、確信することだ。心配しないでよい。主があなたを呼んでおられる、という言葉を自分のものとすることだ。

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