マルコの福音書8章

四千人の給食と呼ばれるこの奇蹟は、6:30-44にある五千人の給食と非常によく似ている。この奇蹟は、デカポリス地方を舞台とし、異邦人が中心であったようだが、先の五千人の給食はベツサイダの近くガリラヤを舞台とし、ユダヤ人が大勢加わっていた。ただ前者が異邦人に対する者で後者がユダヤ人に対する奇蹟という違いがあるわけではないようだ。ヨハネはイエスに奇跡には記録されない多くのものがあったことを匂わせ(21:25)この奇蹟を省略しているが、なぜマルコは、同じような記録を一つに整理することもなく、取り上げたのだろう。これまでの流れから考えるに、結局、弟子たちの飲み込みの悪さを示しているのではないだろうか。

信仰を教えられていても、「まだ分からないのか、まだ悟らないのか」(17節)という事態があるものだ。イエスは、神に信頼することを繰り返し教えたのであり、信頼することがどういうことであるかが、心の奥底にしっかり受けとめられるまでに、弟子たちに付き合ってくださったのである。

そういう意味で、続くベツサイダでの盲人の癒しも、弟子たちに信仰が何であるかを教えようとするものとなっている。この奇蹟はマルコのみが記録するものである。ペテロの郷里(ヨハネ1:44)であれば、なおさらそれは記録に値することであったかもしれない(マルコはペテロの通訳者であった)。ただ、この奇蹟は、不思議にも瞬時になされるものではなかった。イエスは時間をかけて二度チャレンジをしている。大切なのは、イエスが諦めずに、この盲人の癒しに心を傾けたということだろう。というのも、この盲人は、イエスに「何か見えるか」と聞かれるまでは、信仰を働かせていなかったと考えることができる。だから「彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった」とある。彼は信仰を働かせて、神の業を求めたのである。信じるというのは、神の業が働くことを求めていくことである。自分の力で何かをすることではない。弟子たちはまさに、この盲人の癒しから学ばなければならなかった。そして一切の人間的な努力から解放されなくてはならなかった。私たちも同じである。

27節よりは、大きな区分へと入る。イエスと弟子たちは、ピリポ・カイザリアの村々に出かけられた。そしてここで偉大なるイエスの正体について互いに理解を共有する出来事が起こった。イエスは弟子たちに、問いを投げかけた。「人々はわたしを誰だと言っていますか」これによって彼らは、自分たちの師が、旧約預言の約束のメシヤであることを確信していく。

しかし、イエスは、彼らの確信を誰にも言わないようにと口止めした。それは、彼らが「信仰」のテーマと同様に、「メシヤ」についても十分理解していなかった、ということのためなのだろう。実際イエスが語るメシヤ像は、彼らが期待するものとは大きくかけ離れていた。実際イエスは、メシヤの最も重要な役割である十字架の苦難について語るのであるが、ペテロはそれを理解していない。そしてイエスはこの後、このメシヤの役割について、9:31、10:33と三度に渡って、繰り返し説明されるのである。十字架がイエスの生涯の頂点であり、究極であることを、弟子たちは知らなくてはならなかったが、実際にそれがはっきり理解されるのは、イエスの復活後になるのである。

ともあれ、イエスは「十字架なしに栄冠はなし」と、イエスに続く弟子の歩みにも同じ神のみこころがあることを伝える。「捨てる」(34節)と訳されたことばはギリシア語でアパルネオマイ。これは、「否定する」とも訳されている。それは「神を否定する」という文脈の中で使われることばであるが、確かに、自分を否定しなさいという言葉は、神を否定することを前提にして考えるべきものだ。自分を否定することは、自分を無くすことではなく、神を否定しやすい自分を否定することに他ならないのである。神を否定するところにいのちはない。だから、キリスト者は、単に利己的に生きることが悪くて、他者のために生きるのがよいのだ、と考えているわけではない。むしろ、イエスをメシヤとして認め、イエスを遣わしてくださった神の栄光を語り伝えるように生きることが語られている。マルコだけが、「福音のために」(35節)を付加していることに注意したい。つまり、私たちは良い人になるように期待されているのではなく、神の子キリストの宣教者となることが期待されているのである。そして実際、キリスト者にとってキリストにあるいのち、つまり福音を広める働きのために生きることが、他人をも、自分をも救うことになることに気づかねばならない。いのちがいのちを呼び、いのちを燃え上がらせるのである。だから、福音宣教は、ただ信者を増やすというものではない。宗教教団を拡大、強化するというものではない。それは、家族や隣人、知人、そして自分のいのちをも救う、偉大な、栄えある事業なのである。この恵みを覚えて、福音を運ぶ器として歩ませていただこう。

 

 

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