ヨハネの福音書17章

最後の晩餐が終わった。イエスは、教えるべきことを皆教えられた。ご自分の時が来たことを知り(18:4)、ゲッセマネの園へ向かう前に、しばらく、父に祈る時を持っている。三つのことを祈られた。自分自身について(1-5節)、弟子たちについて(6-19節)、そして教会(20-26)についてである。

まず、イエスは、ご自身について祈られる。一つは、自分の栄光が現されるように、である(1節)。というのも、イエスの死は不本意な悲劇ではなく、神に計画されたものであったからだ(ルカ 22:22)。それは、全ての人に神の裁きが行われ、信じる人々には永遠のいのちの賜物を与える目的と持った、神の計画を完成させるためのプロセスであった。だから、今やその計画が実行され、成し遂げられようとするこの時、この神の計画への従順により、イエスは再び栄光の座に戻られるように、と祈っている(ピリピ 2:5-8)。

続いてイエスは、弟子たちのために祈られた。「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。」(6節) 「現しました」は、覆いを取り除くことを意味する。イエスは、弟子たちとともに3年の時を過ごし、それによって神の「御名」を明かにした。つまり、神のご性質を余すところなく教えられたのである。大切なのは、元々、彼らは、神のものであった。神に委ねられたものをイエスは教え、彼らはイエスを神から遣わされたものであると理解した。そして一つの初期共同体(初代教会)を形成するようになった。しかし教会は、イエスと共に天に帰るわけではない。それは悪に渦巻く地上に残されるのである。もはやイエスは彼らの側にあって彼らを守ることはできない。だから、イエスは彼らのために祈っている。一つは、「あなたの御名よって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つとなるためです」(11節)と。イエスが祈られたのは、多様な者が一様になることではなく、一致することである。父と御子は、異なるものであるがその意志と目的において一つである。彼らも同じように、多様な者が、キリストの愛と、その使命に一つとされる必要がある。それは、人間的な一致の努力だけではなしえない事であり、実に神の守りによって起こりうることである。そしてイエスは、弟子たちを神のことばによって「聖別してください」と祈る(17節)。というのも彼らはこの世に遣わされなくてはならなかった。この世にはない、十字架愛に彩られた彼らの素晴らしい性質を、いよいよ力強く証する使命を負っていたからである。

最後にイエスは、弟子たちのことばによってイエスを信じる人々、つまり当時の教会の人々のみならず今日の私たちのためにも祈られた(20節)。まず、同じように一つになることを祈っている(21節)。それは、私たちの証しが力強いものとなるためである。世の人々は神を見ることができない。しかしキリスト者を見、そこに、愛と一致を見いだすなら、神は愛であると悟る事できる。しかし、私たちの内に憎しみと分裂を見るなら、私たちが携える福音のメッセージに重要さを感じることはない。だからそのために、イエスは続いて、私たちが常にイエスと共にあるようにと祈られた(24節)。先の一致が完成するためには、信じる人々が日々高く上げられた主と交わり、神の高さ、広さ、深さ、豊かさを瞑想する以外にない。「神とよき時を過ごす」ことにより、イエスの栄光を味わい知る他にない。私たちは、イエスを肉眼で見たことはない。弟子たちによってイエスについて聞かされているだけである。しかし、信仰の目を持ってイエスを見、愛し、信頼し、喜びを得ているに過ぎない。そんな私たちのためにイエスは、やがて私たちがイエスに留まり続け、イエスの栄光の姿を直接目の当たりにすることができるように、祈っている(26節)。

一致と、イエスと共にあること、それによる世に対する神の愛の証、これがイエスの祈られたことである。老ヨハネが苦難に臨もうとしている1世紀のキリスト者に語るべきこととして回想したことがそれである。私たちは知るべきことをまだ知っていない。神の栄光の高さを味わうように、神とよき時を過ごすこととしよう。

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