ヨハネの福音書16章

イエスが公に伝道をした期間は約3年間である。それまで魚を捕る以外に何の取り柄もなく、世間の注目を浴びることもなかった、12人の弟子たちは、この3年間、実にエキサイティングな日々を過ごしてきた。人生は、出会いである。この弟子たちもイエスに出会うことで、全く思いも寄らない人生を歩むことになった。ところが、そんな興奮に満ちた人生が突然破綻しようとしていた。イエスが去って行くという。そして、取り残された弟子たちに、迫害の嵐が起こるだろう、と予告される。確かに、初代の信仰者たちは、これがまことの神への忠誠であると信じて疑わないパウロの徹底した迫害を受け、苦しめられることになる。イエスは、困惑し、心乱す弟子たちに向けて、ご自分が去って行った後に、彼らの信仰を守り、証が弱められることのないように助け主、聖霊を遣わしてくださる、と語る。

聖霊は、キリスト者を通して世の誤りを明らかにする(8節)。聖霊は、キリスト者とともに、キリスト者の語る聖書の言葉とともに、人々に罪の自覚を与える。つまり、聖霊は、自分を神とし、神を認めようとしない事実に気づきを与える。また聖霊は、キリストの義を知らせる。イエスのことばとわざのすべては義しく、彼がまことに神の子であったことを明らかにするのである。そして聖霊は、敵対的な世に裁きがあったことを宣言する。これから悪者に対する裁きが来るというのではなく、すでに、裁きが起こったことを伝えるのだ(11節)。確かに、イエスの十字架上の死は、私たちの罪の赦しのための身代わりであった。しかし肝心なことは、私たちはこれから裁かれるのではなく、すでに裁かれたことである。だからこそ神様と共に新しい人生を歩むことが可能なのだ。なお注意すべきは、聖霊は「あなたがた」つまり教会に与えられることだろう。罪の自覚を与え、信仰を与えるのは、聖霊の働きであるが、聖霊は、真に霊的に生きた教会、キリストを愛しキリストに忠実である教会と共に働かれるのである。

ヨハネは、この十字架前夜に、イエスのことばを弟子たちがいかに理解できない状態であったことを語り伝えている(12-18節)。イエスの十字架と復活によって、罪の力が打ち破られ、救いが達成され、神の国が現実的なものとなる、その旧約預言の完全な成就が間近であることを彼らは理解できないでいた。しかし、イエスが復活する時に、エマオの途上にあった弟子たちが、聖書を解説されたイエスによってすべてを理解したように、またペンテコステの聖霊降臨によって弟子たちが、一切の不安を取り除かれ確信をもってイエスを証言したように、しばらく時が必要であった。その時のために、彼らは聖霊を祈り求めるように、と勧められる(23,24節)。その時が来れば、全てが明らかになり、もはや、その意味を尋ねる必要はなくなる。老ヨハネは、まさにそのことを実感しながら、この福音書を書いたのであろう。彼は、全てを理解したのであるが、それはこの時の信仰告白に基づくものであったことを(29節)。

最後に弟子たちは、避けられない痛みと悲しみの中を通り、散らされること、そしてイエスが一人残されることを予告される。老ヨハネは、この書を書き進めながら、イエスの十字架の下に、イエスの母マリヤと共に立った時、確かにイエスが一人取り残された事実を思い起こしたことであろう。そして、キリスト教会に対する迫害の気配が高まる中、今のキリスト者に正に必要なことばは、この時イエスが語ったことばは、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(33節)であることを思ったのではあるまいか。彼はただ歴史的事実を書いたわけではない。実際に苦難を生き抜き、復活の勝利を得たイエスの言葉を持って、初代のクリスチャンたちを励ましたのである。

老ヨハネは、イエスに起こった一つ一つのエピソードを思い起こしながら、キリストにあって、無駄な苦難はなく、失望に終わる苦難もない、と語るのである。聖霊の助けによって、主にある平安を抱き、苦難の先にある希望へと目を向けていくこととしよう。

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