ガラテヤ人への手紙3章

ガラテヤ人への手紙3章 神の約束への信仰と律法の限界
1.十字架と御霊(3:1-14)
パウロは、ガラテヤの人たちが、あまりにも簡単に、キリスト教信仰の核心である十字架を、無意味にしてしまうような行動を取っていることに驚いています(1節)。そこでもう一度、キリスト教信仰の核心である福音理解そのものについて語っていくのです。
まずパウロは、歴史的な事実について触れます。彼らは、イエスが荒削りの十字架に釘付けにされ、もだえ苦しみ、力尽きて、死んでいく姿をはっきりと目撃した人々でした。あの苦しみは、イエスが「私たちのためにのろわれた」(13節)者となり、私たちの罪が赦されるためのものでした。それなのに、誰かがやってきて、十字架を信じるだけでは足りない、と言われて、そうなのか、と割礼を受けたり、律法を守ったりする、どうしてそうなるのか、とパウロは言います。私たちの罪が赦されるためには、イエスの苦しみが足りなかったとでも言うのか。イエスがどれほど苦しまれたか、その痛みが不十分だったと言うのか、と。
 次にパウロは、霊的な事実、「御霊を受ける」ことについて語ります(2節)。キリスト教信仰は、聖書を読み、キリスト教的な考え方や作法を教えられて、それを実践していくようなものではない。そのような宗教的な形式や体裁よりも、「御霊を受ける」という実質があるかどうか、が重要。御霊を受け、御霊に従う歩みが本質なのだ、と言います。使徒の働き8章を読むと、魔術師シモンと言う人物が現れて、キリスト教信仰の核心は御霊にあるということを見抜き、お金で、その御霊を受けようと試みたことが書かれています(使徒8:18)。しかし御霊はお金ではなく、信仰によって与えられるものでした。神が約束の御霊を与えてくださることを信じ、その約束の御霊が、私たちの新しい人生を完成させてくださると信じることです。キリスト教信仰は、いつも生真面目に自分の言動を見つめて、あそこが悪い、ここが悪いと、自分の言動に修正を加え続ける、そのようなものではありません。そのような修行僧のような、辛い人生を生きるものではありません。軟弱な者が強くされ、汚れた者が聖くされる、それは神の業なのです。どこまでも十字架の愛をもって私たちを救いの恵みの中に入れてくださった神が、この私を変えてくださる、と信頼して、神様との時を大事にして生きることです。
2.アブラハムの祝福の例に理解を深めよう!(3:14-29)
パウロはそれを理解してもらうためにアブラハムの例をあげます(6-9節)。かつて神は、アブラハムという人物に目を留めて、彼に、多くの子孫を与え、彼の子孫によって地のすべての民族が祝福を受けることを約束されました。この偉大な約束は息子イサク、さらに孫のヤコブに引き継がれました。その後、ヤコブの時代に大きな飢饉があり、ヤコブとヤコブの子孫はエジプトへと移住します。そして17節、約430年の時が経ってしまいました。そこで、神はイスラエルの指導者モーセを立てて、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人を解放します。その時に、神はシナイ山で、イスラエルが神の民として生きるためのルール、いわゆる律法を与えられました。しかしそれで、先に与えられた約束が破棄されたわけではありません。神の祝福の約束は、最初のアブラハムの時がそうであったように、どこまでもその約束を信じることによるのです。では、律法は、何のために与えられたのか?「律法」は、私たちの違反を示し、神の約束に目を向けさせるようにするために与えられたのだ、と言います(19-25節)。つまり人間というのは、愚かな者で、何が正しいのか、何が悪いのか、律法がなかったらわからない、だから加えられた。それは、人間としての在り方の目標をはっきり示すものだが、手段ではない。律法を生真面目に行って、自分の救いを達成できる人はいない。むしろ、律法は、人間がいかに不完全な者であるかを教え、神の恵みと御霊の働きによりたのむために与えられた養育係のようなものなのだ、と。救いの完成は、恵みによる、信仰による、御霊によるというのがキリスト教信仰の核心です。では今日もよい一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「一般に聖書が言うガラテヤは、現在のトルコ領内のどのあたりを言うのでしょうか?」③トルコ中央の北部と南部でした。ガラテヤは北部と南部二つの地域からなり、南部に宛てて書かれたという南部説が有力です。では、今日の聖書クイズを一つ。神がアブラハムに祝福を約束された時に、何を見上げるように示されましたか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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