ガラテヤ人への手紙2章

ガラテヤ人への手紙2章 福音に付け足し無し
1.不完全な福音(2:1-11)
すでに、パウロは自分の語る福音が、全く人間的な教育とは無関係であること、つまり復活の主から直接啓示を受け、それを守ってきたことを語ってきました。2章に入って、パウロは、その人間の手を介さない天来の福音が、キリスト教会のスタートであったエルサレム教会からも認められていたものであったことを語ります。
1節「それから14年たって」とあります。この「それから」をいつとするかで手紙の宛先、執筆年代、執筆場所が変わって来る議論があります。というのも使徒の働きには、パウロのエルサレム訪問が三度記録されています。①使徒9:26-30(ペテロを訪問)、②使徒11:29-30(救援物資の運搬)、③使徒15章(エルサレム会議への出席)。そこで、②の救援物資を運んだ時、と考えると、パウロがこの手紙を書き送った宛先は、南ガラテヤ地方、つまりイコニウムやルステラなどの地方になり、執筆年代は、第二回伝道旅行の途中、AD50、51年頃、場所はコリント滞在中となります。そして③のエルサレム会議への出席からと見ると、宛先は、北ガラテヤ地方になり、執筆年代は、第三回伝道旅行、AD55、56年頃、執筆場所は、エペソに滞在中の時となるわけです。今のところ南ガラテヤ説が多数説のようですが、いずれにせよ、パウロの語る福音に反対する動きがありました。問題は何か、一つは、ギリシア人の同労者テトスが、ユダヤ主義的な人々から割礼を強いられそうになったことから考えると(3節)、割礼を受けなければキリスト者として完全ではない、という議論がありました。パウロは、不完全な福音を語っていたというわけです。
2.福音は行動に反映される(2:12-21)
 このような福音理解は、結局実際的な行動にも影響を与えました。つまり、パウロの福音理解が不十分だとする者たちの主張は、11節、初代教会のリーダーであるペテロの行動に影響を与えたのです。ペテロは、初め異邦人クリスチャンたちと親しくしていましたが、割礼に拘る者たちが来ると、割礼を受けていない異邦人たちから身を引いてしまいました。パウロはそんなペテロに、あなたは言っていることとやっていることが違うと糾弾します(14節)。
16、17節、パウロは主張しました。人が神に正しいと認められるのは、私たちの罪を赦すために十字架で死なれたイエスを受け入れること、信じることだ、と。これは、キリスト教信仰の核心です。しかし、当時のユダヤ人たちは、神に正しいと認められるためには、それなりに立派な人生を生きなければだめだと考えました。例えば十戒を守る、割礼を受ける、これはとても大事と考えたのです。しかしパウロは、それは神に義と認められることではなく、神に自分を義と認めさせることだ、と考えました。今日的に言えば献金、奉仕、伝道を熱心にしていれば、神は私を愛し、祝福してくださるだろうと考えるようなものです。しかしキリスト教信仰において重要なのは、イエスにある神の愛を信じることであり、それがすべてでです。
17節、ユダヤ人は、そんな言い方は、よりよい人生を生きるという人間の責任を放棄することであり、それで神の祝福を受ける、天国に入るなど虫がよすぎると批判しました。けれどもパウロは言います。キリストによって正しい者と認められたなら、その人は逆に努力しないだろうか。キリストによって罪赦された、神は、私を祝福してくださるなんて、なんと素晴らしい、後は安心だ、と、それ以上何にもしなくていいのか、後はいいかげんな人生を生きていても、問題はないのか。そうではないでしょう。そういう人はキリストの業を理解していないのです。実際、古いわたしはキリスト共に死にました(20節)。今生きているのは古い私ではなく新しい自分です。となれば古い生活の継続もありえないのです。新しさあるのみだ、というわけです。新しくされている私たちの人生をしっかり生きたいものです。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロは、ガラテヤ人への手紙を書く前に、少なくとも何度ガラテヤを訪問していたと考えられますか?答えは②2度(ガラテヤ4:13、16)4章を読むと、初めパウロに好意的であったガラテヤ人が、次の訪問では敵対的になったことがわかります。手紙はその二度目の訪問の後に書かれたと考えられます。では今日聖書クイズを一つ。一般に聖書が言うガラテヤは、現在のトルコ領内のどのあたりを言うのでしょうか?①トルコ中央の北部、②トルコ中央の南部、③トルコ中央の北部と南部、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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