コリント人への手紙第二6章

パウロは5章において自らの宣教の動機が、「神の御前に立つ厳粛さ」だけではない「キリストの愛が私を捉えた」ことにあることを明確にした。そこに何ら人間的な思いが入る余地はなかったということである。そして宣教の内容は、神の和解の言葉を伝えること、自分は、和解の務めを任じられた神の使節であることを明言している(20節)。

そこで6章において、パウロは、和解の使節として、実際に神の和解のことばを受け入れるように勧めている(1節)。パウロは完全に自分をキリストのしもべとして位置づけ、キリストのしもべとして語り、その意識的な努力を重ねてきた、と自らの心境を吐露するのである。

だから、「苦難にも苦悩にも困難にも」、「むち打ちにも入獄にも騒乱にも」「疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も」と三拍子を繰り返すような言い方をするが(4,5節)、言いたいことは、人間最も弱くされ、自分を卑しめ、いい加減にことを運びやすい状況においても、神のしもべであることを忘れず、神のしもべとして生きた、ということである。というのも使節の言動によって、彼が持ち運ぶメッセージも、彼が仕えている主人についても、ある評価が加えられるからである。そこにいかなる不当な評価もあってはならない。

となれば消極的なことのみならず、積極的な面においてもキリストを倣うことにおいて意識的であったことを語っている(6,7,8節)。「純潔」はハグノテース、人間苦しい時にこそ、色々と不条理な世の中に毒されていき、真実さ、純潔さをだいなしにしてしまうものであるが、そのような時にこそ、真実さを守って耐えていくという。「知識」は、クリスチャンの実際的な生き方をよくわかっていること、「寛容」は、人々に対する忍耐である。つまり、人々が正道をふみはずし誤っていても、あるいは残忍かつ侮辱的であっても、なお彼らを忍ぶことのできる力を意味する。「親切」は、慈愛とも訳され、自分のことよりもまず他者のことを考える性質である。そして「聖霊」。聖霊の助けなくしてはどんな効果あることばも語りえず、どんな善行もなしえない。「偽りの無い愛」たいていは人々の侮辱、拒絶に、萎えてしまうのが私たちの愛、それは偽りのある愛である。「真理のことば」、いわゆる神のことばを蓄えずして勝利はない。「神の力」に対する謙遜な信仰告白がいつも求められている。「左右の手に持っている義の武器」種々の解釈がある。リビングバイブル訳では、防衛と攻撃の武器とある。つまり右手には刀あるいは槍、左手には盾、ということで、この武器については、エペソ人の手紙6:10-18に、もう一度イメージされやすい形で書かれている。キリスト者にとって耐えることは、ただ忍従することではなく、何事かを成し遂げる不屈の忍耐なのである。

こうしてパウロは自分の働きを再び弁明する。こうして読んでみると、パウロの自己弁明は、3章からずっと続いている。パウロの敵対者は、パウロが推薦状を持っておらず、人を騙す者であるという言い方をした。しかし、そう見えたとしても「真実」だという(8節)。また推薦状を持っていないことでその素性はわからぬと言われたのだろう。いや、キリストを知っている世の基準で判断しない人々には「よく知られている」と言う(9節)。そして、彼はいつも危険な目に遭い、怒った暴徒や官憲に捉まえられて、その働きは危うく哀れなものとみなされていた。しかし、神は幾度となく彼を救い出され、人々の予想に反して生きているし、殺されてもいない」だから、人々からは、この世的にはパウロは、いつも悲しんでいて、貧しさの中にあり、何もかも失っているように見えていたのだろうが、全く逆である、という(10節)。

実に力強い、確信に溢れたパウロの気持ちから、11節、コリントの教会の人々へ、パウロの和解の願いが語られる。今や、自分は、心をさらけ出して話しているのだから、あなたも心を開いて、受け入れて欲しい、と。完全な和解を求めているのである。

さて14節からは、どうも文脈のつながりが悪い。これまでの心からの懇願が中断し、突然異教徒と接触することのないようにという勧告に移っているからだ。そして、7:2で再び「心を開いてください」と閑話休題ならぬ、本題への引き戻しがあるからだ。そこでこれは挿入なのではないか、という議論もあるし、先にコリント人への手紙第一5:9において「わたしは前の手紙で淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました」とあるように、この失われた手紙の一部がここに紛れ込んだと考える説、と色々と議論されている。だがこの箇所は、単なる挿入でも、別文章の混入でもなく、ここまで書き進めてきた和解ムードの頂点において、一番パウロとコリントの教会が共通理解を得なければならないことを明確にしている。和解は、単なる「なごみ」ではない。物事をうやむやにして、平和裏な雰囲気を「いいね!」と味わうことではない。明確に理解すべきこと共有すべきことを確認し、さらに互いが先へ進むための一致である。

つまりパウロは、ここで異教の礼拝を止め、偽使徒と決別すべきことを語っているのだ。パウロとコリントの教会の人々との交わりの回復は、彼らの信仰が正され、彼らの信仰を混迷に導いた偽使徒との決別無くしてあり得ないのである。だから14節「つり合わぬくびき」は、日本のキリスト教会では未信者との結婚という形で理解され、この箇所だけ引き抜かれて説明されることも多かったが、ここでは、異教の礼拝と関わるべきではないという、より一般的な意味で理解すべきところである。実際、パウロは、以降7つの修辞的な問いかけによって、これを強調している。そしてそれは、7:1の神を恐れつつ聖さを全うするという一般的な勧めにつながっている。簡単に言えば、パウロを真実の使徒として受け入れて欲しいと語っているのである。

教会の交わりの基礎に何を置くべきなのかを改めて考えさせられることだろう。そして、教会でどのような教えが語られているかにも注意しなくてはならない。聖書に密着した、聖書主義に立つ教師が求められるゆえんである。

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