ヘブル人への手紙12章

ヘブル人への手紙12章 天に近づく歩み
1.主の訓練(12:1-11)
一般に教会は、「目に見える地上の教会」と「目に見えない霊的な教会」があると教えられます。ここ、二子玉川にある玉川キリスト教会は、目に見える地上の教会ですが、その教会は、歴史的に、プロテスタントキリスト教会を形作ってきた、様々な国々の、様々な時代の人々からなる、目に見えない霊的な教会につながっている、と考えられているのです。既に天に凱旋した多くの信仰の先輩たちに囲まれながら、私たちの教会もある、となれば、私たちも彼らと同じように、良い信仰の歩みを続けようではないか、ということになります。
具体的に、何か牢獄に閉じ込められたような希望を失うことがあれば、創世記にあるヨセフの物語を読むべきですし、担いきれない重荷を担っている、と思うようなことがあれば、出エジプト記のモーセの物語を読むべきです。また、激しい憎しみと敵意の目にさらされている、と思うようなことがあれば、サムエル記のダビデの物語を読むべきです。そしてただひたすら待つことを求められているような時には、創世記のアブラハムの物語を読むべきです。このように、信仰の生涯を生き抜い人々の物語によって、忍耐と励ましを得るのです。そして何よりも、2節、福音書を読み、十字架を耐え忍んだイエスを思い起こし、神の訓練と思い耐え忍びなさい、私たちの信仰を妨げる重荷も、罪も皆捨て去って、前へ前へと進みなさい、と言います。
確かに私たちの試練など、キリストのそれに比べたら些細なものでしょう。たとえそうであっても、その試練を通して十分に訓練されるなら、心には、これでよかったのだ、万事益とされた、と納得のゆく思いも沸き起こるでしょう、と言います。
2.目標を間違えるな(12:12-29)
そこでヘブルの著者は言います。「弱った手と衰えた膝をまっすぐにし」そして、全ての人と平和を追い求め、聖さを求めなさい、と。弱った手、衰えた膝を感じたら、放っておいてはなりません。手足を強くする。人生の前線に出ていく覚悟を決め、それにふさわしい力を回復することです。そして、平和と聖さを人生の価値の中心に置くことです。聖さは、表面的な聖さではありません。それは根本的に、世の生き方とは区別された、神の子としての人生を生きることです。エサウのように、神に与えられている権利を軽んじ、世俗の関心の中に生きているのでは、キリスト者になった意味がないでしょう。世の中の人と同じように、ただお金を儲けること、人の上に立って地位を上り詰めること、自慢げな良い暮らしを求める人生は、それなりのものを得るか、満足できない不完全さに終わるか、わかりませんが、それだけの人生というべきものです。そこで、ヘブルの著者は、私たちが何を目標として前へと進んでいるのか、改めて確認するのです。
それは、18節、旧約聖書時代に、イスラエル人たちが恐れ退いた、シナイの山での出来事に象徴されるような、神の裁きではない、と。むしろ、それは、天上のエルサレム、御使いたちの歓迎、そしてキリストにある罪の赦しの恵み、神の祝福の場へと向かっているのだ、と。私たちは神の子として、神の御国の祝福に、大祝会に迎えられる日へと近づいてます。黙示録には、そこには、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所であると語られています(黙示録21:3)。それは、揺るがされることのない確かなもの、確かな約束です。この世の目に見える世界だけで人生は終わりと思えば、どうしても、この世の事柄に執着した人生になるものでしょう。しかし、目が開かれて、人間の人生が永遠のものであることを悟なら、それにふさわしい歩みを目指すことになります。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「遊女ラハブは、イエス・キリストの系図の中では、誰の母として紹介されているでしょうか?」答えは、ルツの夫ボアズの母として紹介されています(マタイ1:5)。では、今日の聖書クイズを一つ。ヘブル人への手紙が、AD70年以前に書かれたと考えられている、主な理由は何でしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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“ヘブル人への手紙12章” への1件の返信

  1. 福井先生

    本日も有難うございます。

    いつも解説を感謝して読んでいます。
    限られた紙(?)面で、
    すべての語句を講解していただくことが無理なのは当然で、よく承知しておりますので申し訳ないのですが…。
    13節 まっすぐな道、癒されるため、
    という言葉の意味がわかりませんでした。
    何か素晴らしいことのようですが。

    S.A.

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