ヨブ記38章

38章 神の創造の偉大さと配慮

<要約>

おはようございます。いよいよ神が語られます。しかし神はエリフの語ったことをなぞるかのように、ご自身の世界の大きさを語っていきます。確かに私たちは一被造物に過ぎない、謙虚な歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.あなたは、私と一緒に創造の業に携わったのか(37:1-12)

ついに神が沈黙を破りヨブに語ってくださった。しかしそれは単刀直入な回答ではなく、質問の形を取っている。ヨブに考えさせることによって、自ら答えを出させようとしている。ただその質問は、ヨブが答えられる類のものではない。自然の驚異と保持について、神の御業を認めさせる内容であり、神はヨブが質問に対して返答することよりも、自らの無思慮を認め、静まることを期待していると言ってよいだろう。

神は言う。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(2節)これは、ヨブに対してあるいは、エリフに対して向けられたと、二つの取り方がある。ヨブに対してと理解してよい。ヨブは、自分の義を主張し、神に回答を詰め寄った。しかし、神は、それは摂理を暗くすることであるという。神のヨブに対する取扱いは、不当なものに見えながらも、理にかなったものがあるのだ、とヨブは信じるべきだった、というわけだろう。もちろん、こんな苦しみがどうして理にかなったと言えるのかと思うことはあるものだ。しかし神は言う。「あなた勇士のように腰に帯を締めよ」(3節)つまり、私はあなたのご機嫌を取ることはない。心して聞け、ということだろう。

神は、具体的にご自身の比類なき偉大さが現された創造と摂理のみ業を語っていく。そもそも、あなたは、私と一緒に、世界を作る計画者であったのか(4節)。そうでもないのに、神は、どうあるべきかをあなたは不本意に語る羽目になっているのだ。全てを知っているかのような言い方になっているのだ。けれども、この世界の寸法を決め、配置を計画し、その秩序を定めたのは、誰か(5節)。誰がこれを定礎したのか(6節)。人間だって定礎式においては、喜び祝うだろうが、天地が作られたときには、み使いたちが、褒め歌を歌い、天が喜びでいっぱいだったのだ(7節)。

人間の出産にたとえてみよう(8節)。海が生まれ出た時に、この生まれたての海が干上がらないように、雲を衣とし、雨雲を覆いとした(9節)。そして海が自由奔放な子どもとなれば、海岸線と砂丘をもって、柵をつけ、これを守ることも必要だった(10節)。「ここまではいい、けれどもこの先は出てはダメ」と。(11節)。あなたは、私と一緒にこの仕事をしてのけたとでもいうのか。もちろん、それはなかっただろう。ならば、どうして、あなたは、この一切が、あなたのために調整されるようにと要求するのか、というわけだ。

2.闇はいつまでも続くわけではない(37:12-15)

あなたは、朝になれば、太陽に命令を下して「さあ、朝が来た準備せよ、地平線を照らす位置は、そこだ、そこから駆け上がれ」と言ったことがあるのか(12節)。暗闇に紛れて、悪しき行為を行う者どもたちを一層させるように、命じたことがあるのか(13節)。地ははじめモノトーンの世界であるかもしれないが、徐々に太陽の光に照らされて、やがてあらゆる被造世界が形を表し、色鮮やかな祝福の世界を再現するではないか(14節)。やがて、太陽は上る。そしてすべての闇は、葬り去られるのである。悪しき者の運命も同じだ(15節)。

3.神の創造の世界の広さ深さ、その御業を改めて考えてみよ(38:16-21)

ヨブよ、あなたは、海の深みも理解していないだろう。その深淵を歩き回ったことはないだろう(16節)。死の世界だって行ったことはないはずだ(17節)。それなのになぜ死後の世界のことを話すのか。そして実際に目に見えるこの大地についても、その広さをあなたはどこまで知っているのか。あなたの知力は本当に限られているのではないか(18節)。アメリカの西海岸から東海岸へと飛んだことを思い出す。バンクーバーからシカゴ上空を横切り、五大湖を飛び越えてボストンへと向かった時に、神の創造のスケールのあまりの大きさに痛く感動したことを覚えている。ジェット機で、いくら飛んでも、先に陸がずっと続いていくのだ。地球は宇宙の中でも小さな星であるが、人間にとっては巨大であり、そうした地球を造り、それがおさまる太陽系を造り、さらにその太陽系がおさまる銀河系を生み出し、と考えていく時に、神のなさることは計り知れないし、まるで自分が神の摂理の中心にいるかのような発想は実におこがましいことを覚えるのである。神の摂理というのは、私たちが簡単に文句を並べ立てるほど、単純なものではない。ずっと複雑で、深いものである。

ヨブは、光と闇を分け、その秩序を付けている神の御業をただ見るだけであること、ただそれらを知っているだけ、そこに一緒に参画し、神と対等に、物事を動かしているわけではないし、物事を動かせるように具申できる立場にもない現実を、教え諭されているのである(19-21節)。

そのような意味で、私たちの労苦は、いかに大きいものであれ、それはある意味で地球の片隅で起こっているようなものだ。けれども、それはどんなに小さなものであれ、神の深い摂理の中では、神の計画に連ねられているものであり、神の複雑なみこころの内にあって起こっていることである、と神は認めているのである。

4.雪も雨も、人間の創造を超えた神の営みがある(38:22-30)

ヨブよ、あなたは、雪や雹がどのように貯蔵されているのかわかっているのか(22節)。これは、時には敵を滅ぼすために使うもの(23節)。稲妻が煌めく方向や焼け焦げるようなシッコロ風が吹く方角、そして大水の流れはどのように定められるのか(24、25節)。人は、自分が区画した農地にうまく水が運ばれて欲しいと考えるが、私は、人間が入り込まないような荒れ地にも雨を降らせ、そこに若草を生えさせて、野生動物が生息できるようにする(26、27節)。人は豊穣を願って雨ごいをし、雨の父に願い事を並べ立てるが、ヨブよ、あなたは本当に誰がこれらを制御しているかわかっているはずだ(28節)。また冬になれば、水が石のように凍り付き、芯まで冷えて、大地は固まってしまう。それは、実に不思議なことであり、人間にとって何の役に立つことか、と思うだろう。しかし、この四季の移り変わりは、あなたの個人的な利益とを超えたものである。

5.(38:31-38)

そうだ、空を見上げるがいい。あなたは、冬の夜空の一番の見所と言えば、オリオンとすばるに違いない。あなたがたは、それぞれ星に名前をつけてきたが、その塊を造ったのは誰か(31節)。惑星の通り道に並んだ十二の星、つまり黄道の十二星座は、シュメール時代から発見され、バビロニア時代にはそのような秩序があると確定されたようだが、あなたは、その中の一つでも、たとえば牡牛座を誘導して、そこから引き出すことができるのか(32節)。天の法則は、私が決め、その秩序をあらかじめ定めたのだ。そこにお前は一緒にいたというのか(33節)。

ある星座の出現は、雨期の到来を告げると言われるが、実際に雨を降らせるのは、私の雷のような一言であって、あなたではない(35節)。隠され、秘められたことがあるのだ(36節)。あなたが、ちょうどよい適量になったので、雨を降らせましょう、と言うわけではない。そんなことはあなたにはできないことだ(37節)。あなたの知らないところで、地が乾燥し、人間の手に負えなくなった時に、これに心を配り、配慮して雨を降らせるのは、私である(38節)。

実際、あなたは、どこまでこの自然界の野生生物のことを心配しているというのか(39節)。あなたは、いつも自分の営みに忙しく、地球の裏側のジャングルに住む動物など、全く頭にないだろう。だが、私は、この地上に住むすべての命を心配し、配慮しているのだ。あなたの気づかぬような洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せし、獲物を求めている獣についても私は知っている(40節)。烏の子がお腹を空かせて、食べ物を求めている時に、それを聞いて、母親どりに食べ物を供えるのも、私なのだ(41節)。それは、創造主としての私の営みだ。

実に、自己肥大化したような生き方を捨てて、真に神の前に謙虚に歩ませていただきたいものである。神は、私たちが目もくれない、烏の子の泣き声にも心を配っている(41節)。ならば、まして私たちの、心の涙は覚えておられないはずがない。天地創造の神の前に、塵に過ぎない人間であることを忘れず、しかし、神の深い摂理と配慮の中に置かれていることを覚えて、慎みを持って歩ませていただこう。

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