ルカの福音書1章

ルカの福音書1章 ヨハネとイエス、誕生の告知
1.バプテスマのヨハネ誕生の告知(1:1-26)
今日からルカの福音書を読みますが、他の福音書と異なり、続編「使徒の働き」があります。また3節、「すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様」と書かれているように、特定の人物に宛てて書かれたものです。そこで1章、まずルカは、二つのエピソードを取り上げています。一つは、親戚ザカリヤとエリサベツに起った出来事、つまり救い主イエスの先導者となったバプテスマのヨハネの誕生にまつわるエピソードです。5節、ザカリヤは「アビヤの組」の者とされます。つまり、イスラエル最初の祭司アロンの子、エルアザルの子孫で、本家本元の出身です。しかしながらこのゼカリヤ、子に恵まれず、老いてしまった人でした。そんなザカリヤが祭司の務めをしていると、祈りが聞かれたと主の使いに告げられるのです。なんと職務最中に、ゼカリヤは個人的な祈願をしていたのか、というとそうではなく、いつも気にして悩んでいたことを神が聞いてくださった、と伝えられたのでしょう。神は、私たちの思いを知っておられる方です。また主の使いは、特別に与えられるこの子が成し遂げる働きについて語ります。16節、彼は、多くのイスラエル人を「彼らの神である主に立ち返らせる」と。本家本元の祭司として、実にこれに優る幸せはない告知ではないでしょうか。ただザカリヤは実に不思議な経験の中でそう語られているにも関わらず、主の使いの言葉を信じることができないでいるのです。人間の不信仰さは、それほど単純ではないのです。彼はさらなるしるしを求め、結果「話せなくなる」しるしを与えられ、エリサベツはみごもるのです。
2.イエス誕生の告知(1:27-56)
次に、マリヤに救い主イエスの誕生が予告されるエピソード。マリヤの反応もゼカリヤとあまり変わらないものです。ただマリヤはしるしを求めず、静かに神のみこころがなされるように、と受け止めています。大切なのは、信じることのできないことであれ、「神にとって不可能なことはない」と素直に受け止め、成り行きを見守る心を持つことでしょう。神の不思議を見定める勇気を持つことです。46-56節は、一般にマリヤの賛歌(マグニフィカート)と呼ばれる部分です。旧約聖書のハンナの歌(1サムエル2:1-10)と同様に、貧しい者に豊かな恵みを注がれる神を讃えています。50節、「主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます」と。
3.バプテスマのヨハネの誕生とゼカリヤの賛歌(1:57-80)
最後にヨハネ誕生のエピソード、そしてザカリヤの賛歌が綴られます。ザカリヤは70節、救い主が、預言者によって約束されたとおりにやってくることを語っています。その中で最も有名なのは、イザヤ7:14、イエスが処女マリヤから生まれる預言でしょう。また77節、この救い主が誕生した究極の目的は、人類の罪の赦しと「救い」、つまりバプテスマのヨハネ同様に、全人類を神に立ち返らせることにあると語ります。そこで、私に救いは、必要ないなと思う人も静かに胸に手を当てて考えてみてください。私は人生に間違ったことは一つもしていない、と言えるかどうか。犯罪人ではないとしても、人は罪人なのです。続けてルカの語ることを聞いてまいりましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

“ルカの福音書1章” への1件の返信

  1. 福井先生

    本日も有難うございます。

    命名がしるしになることに気づきます。
    エリサベツが「ヨハネとする」と言い、
    ザカリヤも「その名はヨハネ」と言って、
    二人の一致に周囲の人々が驚きました。

    マリアはガブリエルから「イエスと名づけよ」と命じられ、
    ヨセフは夢で「イエスと名づけよ」と命じられたのでした。
    二人で名前を相談する必要はなく、み使いから命じられたことを報告し合うだけでよかったのです。
    別々に示された名前が一致していたことは、
    二人が同一の計画(つまり神ご自身の意志)の内にあることの確証となります。
    二人にとって驚きであり、安心でもあったことでしょう。
    生まれた子が神の子であると確信して育てていく出発点となったわけです。

    さらに、旧約で「インマヌエル」と呼ばれる方が、
    今、私と共にいてくださることを覚えるとき、
    神さまの計画の壮大さ、緻密さ、確かさに感動します。

    S.A.

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