ローマ人への手紙13章

ヨルダンには、アンマンの市内、ジェラシュ、ペトラと、数々のローマ遺跡が散在しているが、それぞれに円形劇場があり、広場があり、その構造はよく似ている。ある意味で、どこに行っても、ローマと同じ感覚の町に住めることを目指した、フランチャイズ方式で、ローマが支配するあらゆる所に同じ形の町が出来上がっている。ローマから遠く離れた中東の町に、これだけのものが造られるとは。ローマの支配の徹底ぶりを思わされる。

そんなローマ帝国がやがてキリスト教国になっていく。初めキリスト教は、中東の一地方ににわかに起こった一宗派だった。パウロがアカヤの地方総督ガリオに訴えられた時、ガリオはその告発にほとんど注意を払わなかった(使徒18:12-17)。それはただユダヤ教の律法解釈を巡って、ユダヤ人に敵視される一派に過ぎなかったからである。それが、ローマ帝国の監視の対象となり、64年ローマ大火をきっかけに迫害を受けていく。やがてそれは、国家的、組織的な迫害にさらされていくのだが、最後には、大どんでん返しで、公認宗教そして国教となっていく。キリスト教の何がそうさせたのか。何が立場を逆転させていったのか。一つには、この13章の権力への服従という教えがあったからなのだろう。

パウロは言う。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます(1,2節)。」後にローマ帝国が昔日の栄光を失い、瓦解仕掛けた時に、キリスト教の権力への服従と組織力は注目された、というわけだ。ローマ帝国は、国家を建て直す国益のためにキリスト教を利用したのかもしれないが、そこに、神のご計画もあったのだろう。

ただ、この箇所を迫害や社会的な苦難の状況にあるキリスト者にそのまま当てはめてよいものかどうかは注意を必要とする。戦中、日本基督教団は、宮城遥拝を受け入れている。そして、アジア諸国に散在していた日本人牧師は国家権力に服従し、現地の人々に宮城遥拝を指導したと言われる。そして天皇を神と認めないキリスト教の牧師の多くは、拷問、獄死の悲惨な道を辿らされた。実際日本軍の残虐行為に、殉教を強いられた韓国のキリスト教の歴史もある。他方、ナチスヒトラーが残虐極まりない振る舞いをした際に、キリスト教の牧師であり抵抗運動をしたボンフェッファーが、「もし精神異常者が車を暴走させたら、それを止めない人がいるであろうか」と自分の行為の正当性を主張したのは有名な話であるが、そのような理屈であれば、この13章1節には矛盾しないのだろうか。

ただ時代的に、パウロがこの手紙を書いた時には、まだ迫害らしい迫害もなかった。つまり、この手紙は国家が国民の利益をもたらすものであるという前提で語られていることに注意しなければならない。国家は悪を罰する、つまり犯罪の抑止や市民道徳の維持のために必要な存在として見られていた。キリスト教徒が、社会や国家の関係に悩むようになるのは、この手紙が書かれて10年も経たないうちであったことは確かであるが、パウロは、国家権力自体が逸脱をし、ヨハネの黙示録に出てくる「海の獣」と化した時(黙示録13章)に、どうしたらよいのか、ということについてはまだ何も語っていない。もしそのような事柄への解答を聖書に求めるのならば、より直接的な文脈のあるところで考察すべきなのだろう。たとえば、ヨハネは黙示録で明らかに、ダニエル書を読者のユダヤ人に連想させ、無法集団の国家権力に対しては、ダニエルのごとく、公の行動に気を付け、中傷者たちにつけこまれる機会を与えず、神を信頼して時を耐え忍ぶことを暗に示している(ダニエル書6章)。数年後、ローマからの激しい迫害の直前に書かれたペテロの手紙においても、思慮深い、適切な忠誠が促されている(1ペテロ2:13-14、4:15-16)。おそらくパウロも、それ以上のことは語らなかったと思われる。

6節、「税金を納める」当たり前のことが言われているが、なすべき当たり前のことをしっかりするのがキリスト者である。このように国家の適切な要求に「はい」と従っているのであれば、限度を超えた要求には「いいえ」と答えることも、神の栄光を現す、意義あることになる。つまり、キリスト者は神が立てられた国家権力に忠実であるべきことに間違いはないが、正義や真実が守られるための戦いは、今まだ平和と思われるこの時代に、いかに正しい真実な歩みをしているかにかかっていると考えたい。そうであればこそ、国家の逸脱に対して「いいえ」を言う権威が神からのものであることを皆が知るのである(使徒4:13)。

10節、「他の人を愛する者は、律法の要求を満たすものです」受けるよりも与えるほうが幸いである、と言われるが、与えていく、愛していくことは、人間としてより完成されたあり方に近づくものである。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものと欲してはならない。」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」ということばに要約されるからです。(9,10節)」実際、「姦淫してはならない」ということは伴侶をもっと深く愛せよということだ。「殺してはならない」も同じで、敵を愛せよである。「盗んではならない」も人のものを大事にせよ、ということになる。むさぼるなも、自分を肉欲に振り回させて破滅させるのではなく、自分を真に大事にせよ、ということになる。他人も自分も愛するということ、他人にも自分にも借りを作らない、ということが、本当に人間としてあるべき姿でもあるのだ。

そしてなぜこういう生き方をするかといえば、「夜はふけて、昼が近づきました。(12節)」ということに尽きるのだろう。確かに、神の御前に立つその時が近づいている。神の前に立ってすべてのことを申し開きする時が近づいている。だから、「闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(12,13節)」となる。今日の一日も、神に近づく歩みをさせていただこう。

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