ローマ人への手紙15章

最初の1-6節は、キリスト者の自由と配慮について語った14章を、キリストの模範を示すことによってまとめるものである。キリストのごとく愛を持って、弱さを担い、互いの徳をはかり、益を目指してく。そのために、キリストがそうであったように、神のことばにしっかりと根ざしていく。実際、聖書は忍耐と励ましを与え、希望を持たせるものだから、聖書が、私たちを互いに同じ思いにしてくださる力となるだろう、というわけだ。教会は、難しい時にこそ、話し合いも大事かもしれないが、まずないよりも一人一人が神のことばに立たなくてはならない。初代教会の一致が乱された最初の危機は、使徒たちがあまりにも忙しすぎて、神のことばと祈りに専心できないことからきていた(使徒6:1-7)。だから、不和がある時にこそ、議論ではなく、みことばと祈りに集中するならば、私たちは調和を取り戻し、神に栄光を帰す結果を持つことになる。互いに受け入れあい、徳を高めあい、そして喜びを持ちたいものである。
そもそも、非ユダヤ人も福音によって祝福されるのは、旧約の時代にはっきりと預言されていたことである(9節)。パウロは入念に、旧約聖書の律法(10節、申命記32:43)、詩篇(9節、詩篇18:49、11節、117:1)、預言書(12節、イザヤ11:1)から引用してその証拠を示す。信仰を持つ非ユダヤ人も信仰を持つユダヤ人と共に一つとされ、神の民の共同体に加えられるのである。だから受け入れ合うことが勧められ、互いが共にあることで、喜び、平安、信仰、希望に満たされるようにと祈っている。
さて、14節以降の15章後半は、個人的な陳述である。パウロは、約20年近く異邦人への宣教者として働いてきた。初め、パウロは教会を迫害し、それを破壊しようとしていた。しかし神の哀れみを受けて、パウロは、使徒とされ、キリストに仕える者となった。そして今や、エルサレムからイルリコにいたるまで福音を宣教した。ガラテヤ、小アジア、マケドニヤ、アカヤの幹線道路に沿った主要都市には、パウロの働きによるキリストを信じる群れが立ち上がっていた。パウロはその働きに誇りを持っているし、まだまだその働きを進めたいと考えていた。しかしそれは単なる拡張主義ではない。パウロは、自分のしていることが「祭司の務めを果たすことであり、異邦人を聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とする」尊い働きに与ることだ、としっかりとした認識を持っている。福音宣教が拡大の結果を生むことがあっても、その働きの本質は、祭司の務めに与ることである。それは、教会の形式を建てあげることではなく、キリストにある新しい関係とキリスト者たちの共なる生活の分かち合いを進める働きである。教会では、愛、労り合い、励まし、支援、分かち合い、仕えることが大事にされなくてはならないのである。そしてそれは具体的なものである。
パウロは、ユダヤ人が非ユダヤ人と分かち合うべきものがある、とする(25-33)。パウロとその仲間は、ギリシアにある異邦人の教会からエルサレムにあるユダヤ人の聖徒たちに対する特別献金を与っていた。この献金の詳細については、2コリント8-9章に記されており、過去2年ほどで計画され、今やようやく手渡す用意が整っていたものである。この特別献金にはいくつかの目的があった。第一に、ユダヤ人兄弟たちに対する異邦人の愛を形にしている。第二に、貧しいユダヤ人信仰者が最も必要を感じている時に、実際的に救いの手を差し伸べることであった。そして第三に、ユダヤ人と異邦人の教会を一つにすることに役立った。確かにそれは、お互いの絆をより強いものにした。パウロは、この献金を、負債を返すことであるとみなしていた。異邦人たちは、霊的な豊かさをユダヤ人から受けていたからである。だから物的な豊かさを自分たちの負債のためにお返しするわけである。またこの献金は、負債を支払うものであると同時に、「実」と考えるべきものであった(28節)。蒔かれた種によって生まれた実であった。実に、教会の愛の交わりは、理想ではない。実質愛が交わされなくてはならないのである。そして愛が交わされ、徳が建てられていくように心を砕く、宣教者の務めがある。
30節にある「力を尽くして」ということばは、競技において自己ベストを尽くす競技者をイメージしている。おそらくこのことばは「一緒に戦う」という方がよりよい表現だろう。私たちの祈りに、いよいよ熱を込めていきたいものである。

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