詩篇82篇

82篇 神の管理人として
おはようございます。世俗の社会の権力者が、正義をないがしろにすることはよくあるものでしょう。しかし、残念なことに、神の戒めを教えられている者たちの間ですら、上に立つ者が聖められきれない救い難い罪深さの中で、正義を歪めていくことがあるものです。そのような現実があればこそ、神々のただ中で裁きを下す神よ、立ち上がって、地をさばいてください、という祈りが深く祈られるのかもしれません。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神々について
「神は、神々のただ中で、さばきを下す。」(1節)神々をどう理解するか、難しいところである。「神々」と訳されたことばはエロヒーム、直訳ではあるが「力ある者」を意味する。これを「天上の異邦的な神々」と取る説がある。ウガリット文書出土以来、カナン神話の中にも神々の会議がある、と知られてからそのような理解を支持する説も現れた。しかし、唯一まことの神を語る聖書の中に、多神教的な概念で語られる詩が混ざるのもおかしい。だからこれを、諸国を守る天使と理解する説もある。しかしこれも神話的な印象を与える。やはり、伝統的な理解にはなるが、リビングバイブル訳がそうであるように、「地上の裁判官」、あるいは、地上の支配者、地上での神の代理人と理解するのが妥当なのだろう(ヨハネ10:24)。つまり、天の神は、地を裁かれる。地の権力を握る者たちを裁かれるという事である。というのも、彼らは、「不正をもってさばき、悪しき者たちの味方をする」(2節)からだ。
2.指導者の立場にある者の責任
人間は罪人であり、その権力を得た者がそれを正しく用いるとは限らない。正しい者のためではなく、自分の都合によって物事を進めて行くことがある。イエスを裁判にかけたピラトは、その良い例だろう。彼は判決に当たり、ユダヤ人の関心を買おうとした。正義が犠牲にされて、一人の命が殺められる、彼はそれをやむなしとした。そのような現実は、私たちの社会にはいくらでもありうることだ。上に立つ者が自分の保身のために、あるいは野心のために、何が正しいかを犠牲にして損得で物事を進めてしまうことは、いくらでもある。しかし神はそのような悪しき者を見逃すことはない。悪い権力者、「弱い者とみなしご、苦しむ者と乏しい者の正しさを認め」ない者たちを裁かずにはおられない。だから、「弱い者と貧しい者を助け出し、悪しき者たちの手から救い出せ。」(4節)と警告する。彼らの不正によって、社会の基礎は根本から揺るがされてしまうからである。
6、7節は、伝統説が否定される根拠とされるところであるが、むしろ伝統説で受け止めてこそ説得力のあるメッセージが出て来る。つまりたとい、権力者がいかに権力を握り、「神々」「いと高き方の子ら」と呼ばわれようとも、人間であることに変わりはない。彼らは皆いずれ死に絶えて行く者たちである(7節)。だから、彼らは神の代行者として神の御旨を行うことにこそ、心を砕かなくてはならない。本来自らに属する以上のものを自らに帰することのないように、心遜る必要がある。地上の権力を持つ者もまた、皆、天の法廷において神の裁きを受けなくてはならないのである。
3.正しきを行う
この地上にあるものは皆主のものである。だから権力を持つ者は、自分の責任を厳しく自覚せねばならない。神に委ねられた権力をいかに用いるのか。神への忠実さを意識して初めて、権力を持つ者はその人生を全うすることが出来る。実際ダビデが、バテシェバの件で戒められたのも、それは、性的不道徳の問題としてのみ語られることが多いが、本質的な問題は、彼が自らの王権を正しく用いなかったところにある。神に委ねられたものを正しく用いることが、神の期待するところなのである。
「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。あなたが、すべての国々を、ご自分のものとしておられるからです。」(8節)これまで述べたことからもわかるように、1節に呼応する。人の上に立つ時には、すべては、自分の手の中にあるのではなく、自らが神の手中にあることを覚えなくてはならない。自分はこれらのすべてを委ねられているのであり、管理人として上に立てられているに過ぎないことを自覚せねばならない。そのような意味ではいつでも神を恐れ、頌栄をもって一日をスタートさせるような気持ちが必要だ。いつでも神を称えるところから自分の一日を始めるのである。そして、神のしもべとして自身に委ねられた責任と務めを、正しく果たすことを覚えたいものである。

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