1サムエル記25章

25章 ダビデとナバル
<要約>
おはようございます。ナバルのエピソードは、先のサウルのエピソードと並行して理解すべきものであると思われます。私たちはどうしても、ダビデに自分を重ねて、読み、聖書のメッセージに安心を得ようとするところがあります。しかし、本当に、神が何を語りかけているのかに心を集中すべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1. ダビデのありのままの姿
ダビデは600人の従者を抱えていた。実に多くの必要を満たすために、彼は何かをしなくてはならなかった。そこでダビデは、かつてナバルという人物に恩を売ったことを思い出す。ナバルの意味は「愚か者」であるが、親がそのような名前をつけるとは思われないので、おそらく本当の名前をもじった呼び方だったのだろう。しかしこの男は、その名の通りの人生の結末を迎えてしまった。
彼は、農夫たちの中では一番金持ちであった。そこでダビデは、自分の部下を数人遣わして、彼らを守ったことについての報酬を少し求めたのであった(8節)。しかしナバルは、非常に粗野な答え方をして、ダビデの部下を追い返してしまつた。しかも、ナバルは、ダビデを「逃亡した奴隷」と呼び、神がダビデを王として立てられたことを認めようとはしなかった。
恩を仇で返され、存在すら軽んじられてしまう、さぞ口惜しいところであっただろう。そして、このような非礼に対しては、仕返しをする十分な理由がある、と思わされたのではないか。ダビデは、部下に剣をつけさせ、四百人の部下を引き連れ、ナバルどころか一家を皆殺しにするために出かけていった。24章では、ダビデはサウルに手を下さず、大変な忍耐と人間として最も円熟した有り方を示したのであるが、その直後には、全く人間的で粗野な姿をあからさまにしている。自制心の一欠片もなく、ナバルのわずかな侮辱の言葉で怒り狂っている。いじめられっ子が自分の意になるものを苛め抜く、ダビデは、なんとも浅ましい姿をさらしているではないか。
2.聖書の本質的なメッセージを見抜く 
ダビデの物語をどのように、適応すべきか。多くの人は、ダビデの試練に自分の試練を重ねて読むことがあるものではないか。確かに、苦難にあってはダビデに自分を重ねて、神の恵みを仰ぐことはよくなされることとしても、全てが全て重ねられるわけではない。ダビデに起こったことが、私たちに起こるとは必ずしも言えないこともある。だからダビデの生涯を読みながら、自分の状況を重ねるのではない、神がその物語を通して語ろうとしている本質的で霊的なメッセージをよくよく理解していかなくてはならないところである。
そこで思わされることは、サウルに対する霊的な勝利と思われるエピソードは、必ずしも彼の品性に基づくものではない、ということである。むしろ著者は、それを確証するかのように小サウルとも言うべきナバルに対して、その侮辱を見逃すことができず、自分が王であることを暴力によって思い知らせようとするダビデを描いている。そしてここに既に、後のダビデの過ちの萌芽は現れていることすら示している。
ダビデが、復讐の罪に陥ることから守られ、罪の血を流さずに済んだのは、一重に、アビガイルの機転によるものであった。全く、ダビデの生涯も地位も、神のあわれみによるものなのであって、ダビデ自身の品性や、才能や、能力によらない。ここを、私たちはよく理解すべきなのだろう。
そのような意味では、私たちの人生において、主の恵みが強く表されることを祈り、求めなくてはならない。貧しい欠乏にあっては、主に寄り頼み、また、復讐する正当な理由のある侮辱に際しても、また主に寄り頼み、ただ神にすがる人生を歩ませていただくことである。結局人間は、神に日々刻々、一瞬一瞬寄り頼んで生きることがなければ、愚かな生まれつきのままの人間の欲望に振り回されてしまうものであろう。どんなに誘惑に打ち勝った経験があろうと、どんなに聖められた経験をしたとしても、それは、永続的なものではなく、日々刻々の勝利である。私たちの勝利は、天に宝を積むことにはなるが、地においては、その時々の勝利に過ぎない。いつでも、私たちは次の戦い、次の戦いへと備えられなくてはならない。

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