2歴代誌33章

33章 マナセとアモン

<要約>

おはようございます。50年の長きにわたり統治した王が、悔い改めに基づいて神の憐みを受ける。実に、神の憐みの深さを覚えさせられるところでしょう。他方、そのような政権のもとで、キリスト者は以下に生きるべきか。放蕩息子の悔い改めを拒んだ兄息子ではなく、彼の帰郷を待ち望んだ父の心に近付く霊的な成長を必要としている、と言えます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.マナセの統治

マナセの生涯は実に興味深い。マナセは、55年という長期に渡って統治したが、神のみこころにかなった王ではなかった。彼は、「主の目の前に悪を行い、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き治し、バアルのために祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた」(2,3節)と言い、さらに、アシェラ像を主の宮に築き、ベン・ヒノムの谷での儀式を復活させた(6節)。先のアハズ王に並んで、南の最悪の王というべき存在であった。彼は父ヒゼキヤの信仰から何一つ3学ぶことなく、預言者のことばにも耳を貸さなかった。そんな彼を神が裁かれる。彼はまさに、痛い思いをせずに学べない者であった。彼は、鉤で捕らえられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンへと引かれていった。

一国の王として、さぞ絶望的な状況であったことだろう。もはや二度と自分の王宮に戻ることも、王権を復活することもあり得ない、全く将来に希望を失う状況であったはずだ。しかし、その悩みの中で彼は悔い改めて、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって神に祈ったと言う。アハズとは違う点である。神はマナセを王国に戻された。そしてマナセは、この出来事を通じて、主こそ神であることを知るのである。

実に、全く希望を失わせられる状況の中で、遜り、心から神を呼び求め、嘆願する時に、神は祈りを見過ごされない。たとえ、神に逆らい、その逆鱗に触れる者であっても、神はあわれみ深く私たちを取り扱われる。この神の恵みに甘える他はない、という時がある。実際「我に返った」時には、ただひたすら、神のあわれみに寄りすがる他、道はないものだろう。たとえそうであっても、神は、悔い改めるなら、いつでも私たちを受け入れてくださるお方なのだ。

2.マナセを思う神の心

しかしそれにしても、マナセが愛されて回復されることは、マナセにとっては幸いであったが、イスラエルの真面目な人々や神を真に求める人々にとっては、心穏やかならぬことであったのではあるまいか。神は、マナセの一人のために、主を熱心に呼び求める人々を、しばらく犠牲にされたのではないか。主を熱心に呼び求める人々を傍らに、また神を恐れないマナセによってどれほどの犠牲と痛みがあったかを考えると、マナセが悔い改めることを待ち望むことの意味が理解できないことがあるだろう。しかしそれは、放蕩息子を受け入れられない、兄息子と同じで、放蕩息子の帰りを待ちわび、ついにその千載一遇の機会を得た父親の気持ちを、理解しえない子どもの立場にあるが故なのだろう。人生には、神に愛されることを願う人生と神に従うことを願う人生の二つがある。私たちは神に愛されることを願う人生を求めやすい。神に願い事を並べ立て、神が自分の思うとおりに動いてくれる人生を願いやすい。しかし、神の側に立ち、神に従う人生を学んでいく必要がある。つまり、父なる神と同じ心を持って、罪人の回復を願うことを喜びとする人生である。そうすればどんな罪人にも期待し、祈り続け、願う者となっていくものなのだ。

アモンについては、極めて短く述べられている。その生涯は、父マナセの悪を引き継ぐものであり、彼は悔い改めない王であった。結果その報いを受けることになる。悔い改めるべき時に悔い改めない王として彼は描かれている。しかし、悔い改める者を、神が見過ごされることはない。

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