2歴代誌32章

32章 通常の信仰の回復

<要約>

おはようございます。主が守られるのでなければ、何をしても、無に帰すようなものです。主の支配は決定的なことです。いつでも主に栄光を帰し、良いことも悪いことも主の御許しの中で起こっていることですから、良い時も悪い時も主に委ね、淡々となすべきことをなしていく、そのように歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  1. ヒゼキヤの試練

ヒゼキヤの礼拝改革の後、北の強国アッシリヤがエルサレムを攻め込もうと包囲した時のエピソード(2列王18-20章)である。歴代誌の著者は、これを「神の主権」という主題から新しく取り扱っている。演説や重要な預言(2列王19:20-34)、そして複雑な折衝も割愛されている。それは、イスラエルの真の支配者が主であり、主に対する信仰を奮い立たせることに、この章の目的を置くためだ。

神に信頼する指導者であっても、困難にぶちあたるものである。ヒゼキヤのみならずアサやヨシャパテも、敬虔な歩みの後に、異国の侵略による苦難に直面させられている(2歴代149-11、20:1-13)。実はそのような時にこそ、その信仰の真価が試されることになる。そしてこの戦いに勝ち目はなかった。

2.ヒゼキヤの対応

しかし絶体絶命の中でもヒゼキヤは諦めない。むしろ彼は、ダビデと同じように、奮い立った。そして水源を確保し、崩れていた城壁を全て立て直した。さらにやぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き上げ、兵器を大量に準備した。

困難に直面すると、それだけで心が萎えて、何もできない思いにさせられてしまうことは多い。しかし、人生に困難は付き物である。しかも、試練に置かれていることは、私たちの神もご存じなのだから、主に信頼してへたり込んでしまうのではなく、最後まで最善を尽くすことだろう。そして、いつでも神の助けがある、と信仰の内に奮い立ちたいものだ(7,8節)。

というのも、どんなにやぐらを積み上げ、城壁を築き、大量の武器を作ろうが、奇跡的に介入してくださる神がいなければ、それらは役には立たないからだ。救いは、やはり信仰による。物事を確実に進めてくださるのは神である。その神に対する信仰を持てばこそ、確実に一歩一歩と先に進めるのである。

3.アッシリヤの脅迫

さて侵略国アッシリヤは、イスラエルの神に対する信頼を脅かすために、二つの議論を持ちかけて来た。まず、ヒゼキヤが主の祭壇をたくさん破壊したことが(11-12節)、主の怒りを招いたとする。それは、偶像礼拝の危険性を回避し、礼拝を一極集中化させるヒゼキヤの神に対する誠実さへの挑戦であった(29-31章)。次にアッシリヤは、自分たちの勝利が、敗れ去った敵の神々の無力さ示すものであり、自分の手による功績であるとした(13,14,15,17節)。主は他の神々と同等、さらには人間以下とされたのである。

3.イスラエルの対応

これを受けて、ユダの指導者が祈り始めた。そして転機が訪れた(20節)。主は彼らの絶望の淵にある叫びを聞き、救いの手を差し伸べられたのである(22節)。歴代誌の著者の関心は、祈りに誠実に応える神にある。そして祈りに対する応えは、直ちに事態が転換したことのみならず、それから20年後のセナケリブの死をも含めるものであった。

こうしてヒゼキヤは、人々に尊敬の目で見られるようになったが、勝利は、ヒゼキヤの知恵にも指導力にもよらず、ただ神の恵みによるものである。だが、ヒゼキヤは高ぶっていく。うまく物事が進むのは、私たちの能力以上に、神の恵みの現れである事実に立ちたい。そして自分の過ちに気づいたならば、いつでも神の前に遜る者でありたい。神は遜る者とともにおり、遜る者を祝される。それが後半のメッセージである。

ともあれ、危機に立たされた時にこそ、信仰が問われ、神に対する姿勢が問われる。危機は人生にいくらでもありうると、力強く前進する歩みを歩ませていただきたい。

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