ルカの福音書1章

ルカの福音書は、使徒の働きという続編を持つ唯一の福音書である。この二部作は、「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」(3節)とあるように、ローマ人テオピロと呼ばれる人物に宛てて、彼が信仰に導かれる事を願って書き綴られたものである。一人の魂に向かい合う、ルカの熱心さを教えられるところだろう。ルカは「すでに教えを受けられた事柄が正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます」と語り、自分のしていることにはっきりとした目的意識を持っている。

そこでまずルカは、二つのエピソードを取り上げる。一つは、親戚ザカリヤとエリサベツに起った出来事、つまりバプテスマのヨハネの誕生についてである。ザカリヤは「アビヤの組」の者であったという。捕囚から帰還したのはたった四組の祭司たちであったが(エズラ2:36-39)、それが細分化され二十四組に再編されアビヤの組ができていたのだろう。ともあれ、ザカリヤは、エリサベツを妻に迎え、忠実な祭司であったが、長く子どもに恵まれなかった。そして将来的にも子どもを持つ機会もあり得ない歳になっていた。そんなザカリヤが祭司の務めの際に、祈りが聞かれたと天使に告げられている。なんとザカリヤは、職務最中に、子宝に恵まれるように祈ったのであろうか。そうではないだろう。彼は祭司として、いつものようにイスラエルが贖われるように祈っていたのだが、従来心に抱いていた思いを神が聞いてくださった、と伝えられたのだろう。神は、私たちが思いを口にする前にそれを理解し、心に留めておいてくださるお方である。またみ使いは、神の格別な哀れみによって生まれるこの子どもが成し遂げることを語る。彼は聖霊に満たされ、多くのイスラエル人を「彼らの神である主に立ち返らせる」と言う。ザカリヤはまさに今目の前で不思議なことが起こっているにもかかわらず、み使いの言葉を信じることができなかった。人間の不信仰の現実を思わされるところである。私たちは信じていると口で言っているほどには実際に物事を信じる力を持ってはいないものだ。ゼカリヤはしるしを求めた。結果、ガブリエルのことばが成就するまで「モノが言えない」しるしを授けられることになり、エリサベツはみごもった。

続いて、イエス誕生のエピソード。マリヤにイエスの誕生が予告される。マリヤの反応もゼカリヤとは大差がない。ただマリヤはしるしを求めることはなかった。そしてガブリエルのことばに耳を傾け、神のみこころを静かに受け止める覚悟を示している。大切なのは、信じる力はないとしても、「神にとって不可能なことはない」と語られることばを素直に受け止め、将来を見定める心を持つことではないだろうか。信仰は、将来に起こるであろう神のご計画を認め、思い巡らし、その成就を待ち望む行為である。

46-56節は、一般にマリヤの賛歌(マグニフィカート)と呼ばれる。旧約聖書のハンナの歌(1サムエル2:1-10)を思い起こさせるが、ハンナのそれは勝利の歌であるが、マリヤの賛歌は、崇高な神の力、聖さ、あわれみを心に留め、讃えるマリヤの謙遜さがよく表れている。また神のみこころは、いかなる社会の秩序にも左右されることがない。神は、ご自身の御心を成し遂げられる。

67節から80節はザカリヤの預言として知られているが、ここで、救い主は、契約に基づいて(72節)預言者によって約束されて(70節)やってくることが明確にされている。「主が話して下さった通り(70節)」という言葉は、旧約のいくつかの預言を思い起こさせてくれる。たとえば、創世記3:15、ヘブル2:16(救い主は人間であり天使ではない)、創生記12:1-3、民数4:17(救い主はユダヤ人である)、創世記49:10(ユダの出である)、Ⅱサムエル7:1-17(ダビデの家系である)、ミカ5:2(ダビデの町ベツレヘムに生まれる)、イザヤ7:14(処女マリヤから生まれる)などである。

この救い主が現れた究極の目的は、人類の罪の「救い」にあった。というのも、人は皆神の律法を犯し、神の基準に生きることに失敗し(ルカ7:40-50)、神の裁きを免れえず、救いを必要としているからである(ヨハネ1:29、詩篇103:12)。ルカの福音書は、冒頭から、このイエスの救いに目を向けるように語り掛けて来る。そしてこれが神の深い哀れみによるものであることを語っている。そのためにルカ自身、知力を尽くして、読者の理解が得られることを願っている。今日このイエスの救いが一人一人に明らかにされることを、深く祈り、願い、とりなすこととしよう。

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