マルコの福音書16章

「安息日が終わって」イエスはよみがえった。しかしイエスの弟子たちは誰一人、イエスのよみがえりの約束を思い起こすことができずにいた。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメが、イエスに油を塗りに行くために、香料を買ったとある。それは葬りのための香料で、女性たちは、機会を改めしっかり葬り直そうと考えていたのである。さらにイエスが復活したと聞いた時の最初のレスポンスは、信仰による喜びではなく、恐れであったという。あれほど、イエスと親しく時を過ごし、イエスの教えを3年間みっちり受けながら、彼女たちも、弟子たちも、イエスが語られたことをよく理解していなかったのである。イエスはその「不信仰と頑なな心をお責めになった」というが、それは、私たちもて同じであったことだろう。イエスの復活の力を信じられないからこそ、いつまでも、無力感、絶望感に浸りきった人生を生きている。どうせ私の人生はこれで終わるのだと諦めに満ちた人生を生きている。クリスチャンであるという名札は下げているが、中身はそうではない。動かし難い山のような現実を前に、からし種ほどの信仰もなく、ただ教会に惰性で通い続けている人は少なくないだろう。しかし、そういう不信仰からは卒業しなくてはいけない。弟子たちのように、その不信仰とかたくなな心を責められ、イエスにはっきりと語っていただく、人ではなくイエスにしっかり目を覚まされることが、起こってこないと、こういう不信仰は乗り越えがたいものなのだ。
さて、マルコの福音書の終わり方は、実に不自然である。新改訳2017では、アスタリスクで始まり括弧つきで終わる文章がある。また、9節とあり、同じようにアスタリスクが付けられて20節で終わる括弧つきの文章がある。つまり、マルコの福音書は、ギリシャ語の写本では、合計四つの終わり方があるということだ。一つは、唐突に8節で終わる写本がある。二つ目に、8節からアスタリスク付きの短い追加文で終わるものがある。三つ目に、8節以降9節から20節の長めの追加文に続いて終わるものがある。最後に今日の私たちの目に触れることのなかった未知の終わり方をするものがある、というわけだ。
どの終わり方が、マルコの自筆のものなのか、色々と議論されてきてはいるが、結局今日の研究では、これらはマルコの手によるものではなく、誰か別の人が8節で破損して伝えられたかもしれない写本に付け加えたものだとされている。だから、マルコの自筆は8節までで、短い追加文は、不自然に終わる末尾を完結しようと整えたもので、9節から20節にある長めの追加文は、マグダラのマリヤの物語(9-11、ヨハネ20:1-8)、エマオの途上の物語(12-13、ルカ24:13-35)、大宣教命令(14-15、マタイ28:18-20)と他の福音書の最後の主題を網羅している点があり、もしそうであれば、この末尾は、これらの福音書の後に、マルコ以外の手で書かれたことは確実である。だから、エウセビオスやヒエロニムスのような初期の人々には偽作と見なされているのだから、それ以前に、本来の末尾が適切ではないというので、あるいは失われていたので、仕上げようとした試みなのかもしれない。もちろん、内容は聖書として正確であったとしても、本来のマルコの本文であるということは言えないのではないか。
となれば、この箇所の注解を試みることにおいては慎重にあらねばならないし、また議論の多い点については、別の福音書においてより明確に語られている方をメッセージとして受け止めるべきことにもなる。だから、18節「たとい毒を飲んでも」は、論議のあるところであり、解釈においては留保を余儀なくされざるを得ない。それ以外の言及については、悪霊を追い出したり(使徒16:18)、ペンテコステ以降新しいことばが語られたり(使徒2:4)、パウロが蛇を日の中に振り落としたり(使徒28:5)、病人の上に手を置いて癒したり(使徒28:8)と他の箇所でも確認できることである。そういう部分もあるが、内容においては大方間違ったことは言っておらず、マルコの意図を共有した締めくくりである、と言える。20節は、他の福音書にはない、マルコの福音書が書かれた時代を彷彿とさせる初代教会史に踏み込む内容である。いわばルカが自分の福音書に加えた使徒の働きを、一節に凝縮要約したような内容である。教会は主に導かれて前進するのだ。初代の熱意に触れるところでもある。

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