ペテロの手紙第二3章

3章 神は遅らせておられる
1.終わりの時を正しく理解する(3:1-13)
ペテロは、先の2章で、偽教師たちの信仰的な実践について警戒を示すように、述べました。この3章では、その実践を生み出す教え、ことに再臨についての間違った考え方に対して、正しくはどう考えるべきかを示そうとしています。
偽教師は、キリストの再臨を否定しました。しかしそれが2章で語られるような品性堕落の原因でした。万物の支配者であり審判者である神の前に、人は皆、やがて立つのだ、という意識が薄れると、人はいい加減な人生を歩んでしまうことになります。ペテロはよく思い起こせ、と言います。神の審判、キリストの再臨は、旧約聖書にも語られ、イエスが繰り返し語ってきたことではないか、と。だから、その時を意識して、目を覚ました、聖なる敬虔な歩みをしなさい、と勧めるのです。イエスがたとえ話で語ったように(ルカ12:35-48)。遠くに出かけた主人が、まだまだ帰らないだろう、と食べたり飲んだり、酒に酔ったり、召使をいじめたりする不忠実な管理人のようであってはならない、と言います。
そして再臨が遅れている、いや、そんな気配もないかのように見えるのは、8、9節、神が、その時を送らせているからだ、と言います。つまり、神は「だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」だから滅びの日を、もう少し、もう少しと延ばしている、と言うのです。ペテロが引用しているのは、詩篇90:4「まことに、あなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほどです」です。それは、神の時間間隔と私たちのそれが違うことを語っています。神は急ぐことも、遅れることもありません。神はちょうどよい時を知っておられます。そして神は、時が来れば、ご自身が予めご計画しておられたことを速やかに実行されるのです。天地創造も出エジプトの出来事も皆そうです。人が千年かかるところを神は1日で終わらせます。しかし、神は、世の終わりについては、あわれみのゆえに、送らせている。悪者の死さえ喜ばない神であればこそ、その愛のゆえに、悔い改めの時を用意するために世の終わりの時を延期し続けている、と言うわけですね。
2.神の期待に生きる(3:14-18)
そこで、神の期待について、明確に理解しておきましょう。
まず神は、私たちが「聖なる敬虔な生き方」をするように期待しておられます。14節、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力する」ことが期待されています。ペテロは、変貌山でこの世にはない神の聖さを目撃する経験をしています。私たちもどこかで神の聖さを目撃し、人間社会にはない聖さを求め、そこに生きることを教えられる必要があります。キリスト者の人生は、自分の正しさを磨くような生き方ではありません。
また、自分自身の堅実さを失わないようにすることです。主の忍耐は私たちにとって救いです。やり直しが許されているのです。執行猶予期間が与えられているのですから、その間にしっかりと堅実な人生を歩みなおすということでしょう。もし、自分がどうも偽教師の影響を受けていたと思うなら、今日、軌道修正をする、そして、「救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長する(18節)」歩みをスタートさせることです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「パウロは信仰の使徒、ヤコブは行いの使徒、ヨハネは愛の使徒とすると、ペテロは何の使徒と言うことができるでしょうか?」答えは、希望の使徒でした。それぞれ、使徒の特徴を一言で言い表すとそうなるでしょうか。では、今日の聖書クイズを一つ。「ペテロのギリシア語の通訳者としていつも同行し、後に福音書を書いたと考えられているのは、誰でしょうか?①マルコ、②ルカ、③シルワノ」答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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“ペテロの手紙第二3章” への1件の返信

  1. 福井先生へ、

    一日一章の聖書の解説をありがたく感謝して拝読しています。
    私は主のご再臨を待ち望んでいるものですが、主のご愛と
    再臨が何時か、、、、の説明をして頂き、納得がいきました。
    主の時が満ちる日を目を覚まして待つことができるよう、忍耐と希望をもって生きていきます。有難う御座いました。

    ランメル 幸

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