ローマ人への手紙14章

キリスト者の成熟の問題をどのように考えるか、パウロは、すでに7章でこの問題を扱っている。キリスト者として信仰はスタートしたものの、実際には、変わり切れない自分を抱えて、信仰を否定すらしたくなることはあるだろう。だが、8章以降、私たちは、すべては上から与えられるのであり、神の内なる業に信頼すべきこと、また決してこのような私たちが見捨てられることはなく神が完成してくださることに期待すべきことをすでに、学んできた。
14章において、さらに具体的にこの問題を考えてみたい。パウロは、問題となりやすい二つの生活領域を取り上げる。一つは食べ物、そして、もう一つは特定の日を宗教的に守ることである。当時、エルサレム会議での議論によれば、偶像にささげられた動物の肉を食べてはいけなかった(使徒15:20、29)。現代でもユダヤ人はコーシャス規定というものを持っていて、かのハンバーガーショップのマクドナルドですら、肉とミルク製品は別途のカウンターで扱っている。イスラム世界ではハラール認証というものがあるが、イスラエルではレストランにコーシャス規定のマークを表示するのは、普通のことである。
ともあれここでの問題は、異教社会で生活しているキリスト者の間で必然的に起こってきた問題であった。パウロは、コリント教会への手紙においてもこの問題を扱っている(1コリント10:23-33)。異教の都市の肉屋で売られている肉の多くは、異教の神にささげられた動物のものであり、キリスト者の中には、そうした肉を買うことに良心的な咎めを感じる者もいた。パウロは、そこで異教の神など実体がないものだから、良心の咎めを感じる必要はないのだ、と言いながら、全てのことが許されていると言っても、全てが益にはならないし、むしろ、神の栄光を表すという観点から、愛をもって、互いの徳を高める生き方をするように勧めている。
ここでも基本的に同じことを言っている。異なる確信や良心の縛りにあるキリスト者が、同じ交わりの中にある時に、一つの価値観となるように徹底して教育する、あるいは、お互いに徹底的に議論して、統一見解に達する、パウロはいずれも求めていない。まあ、考えてみれば、たとえ考え方がこの点で一つになろうと思うことがあっても、人それぞれに心のペースがあるものだから、当たり前と言えば当たり前である。
まずパウロは、それぞれに確信を持ち、互いに受け入れ合うべきことを語る(14:1-12)。互いに相手の状態を理解しあい、他人の行為を裁かないように、と勧めている。そして「信仰の弱い人」と思われるような人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけない(1節)と語る。「信仰の弱い人」というのは、霊的に幼く、本質的なものと非本質的なものとの区別がつかない人のことを言う。他方「信仰の強い人」は、キリストにある霊的な自由を理解し、ある特定の食べ物や聖なる日の奴隷にならないような人たちであるが、彼らの問題は、霊的に幼い人々を受け入れられない愛の乏しさにあった。彼らは、神が自分たちを受け入れ養い育ててくださったように(3節)、弱い者を裁いたり、軽蔑したりせずに受け入れ、その成長を見守るべき立場にあった。
だからパウロは、個人の確信を一々言葉に言い表して、争い事を深めるようなことをせず、まず「自分の心の中で確信を持つ」べきことを勧める(5節)。ルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ最も自由な主人であって、だれにも従属していない」(『キリスト者の自由』)と語っているが、信仰者の歩みは、ただ神の前に生き、神に責任を問われるものである。やがて私たちは皆、神の前に立って、自分の生きて来た人生について申し開きをしなければならない(12節)。裁くのは神であって、人ではない。弱いキリスト者も、強いキリスト者も互いにさばきあうのではなく、自分の確信は自分のものとして持て、という。確かに、裁いたり、軽蔑したりすることは自分の尺度を押し付け、自分のようになれ、ということに他ならない。これが災いの元であることは言うまでもない。ちなみに、多元的に相手の価値や生態をあるがままに見て、受け止めていく、これは、文化人類学者に学ぶところが多い。
そこで、この原則を理解した上で、弱い、強いということを言うのであれば、強さは、配慮に現れる、というのが、後半の語るところだろう。ルターは、先の言葉の後で、「キリスト者はすべてのものに最も奉仕するしもべであって、だれにも従属している」と語っている。つまり、成熟したキリスト者は、きわめて自由に生きることができるが、他人との関係においては配慮を持ち、その自由を喜んで制御できるのである。人を躓かせ、悲しませ、悩ませるぐらいだったら、自制した方が互いの益となるだろう。成熟したキリスト者が、自分が良しとしていることで、そしられるようであってはいけない。良いと思っていることは、主観的ではなく客観的に誰にでも認められるものでなければならない(18節)。
そういう意味で、私たちは「平和に役立つこと」と「お互いの霊的成長に役立つこと」とを求めたいものだ。つまり、あの人はあるいは自分は「弱い」とか「強い」とは言っても、実際に、弱いも強いもない。弱い者は未熟、強い者は成熟なんかではない。弱い信仰者は、「恵みと救い主イエスを知る知識におい成長」できるように保護され、励まされる必要があるかもしれない、しかし、少し先に進んでいるかもしれないという強い信仰者も、愛において成熟しなくてはいけないのだ。良心は知識によって強められ、知識は愛によって整えられるべきものだ。強いといえども、成熟の余地は、さらに多くあるのであって、互いに成長とそのための支え合いを必要としている。神の国が、「義と平和と聖霊による喜び」を第一とするのだ、というのはそういう考え方を持ってこそ成り立つものである。
だから、私たちは互いを建てあげるという気持ちを持つことが大切だ。イエスの時代のパリサイ人のように、仔細なことに拘り、ぎすぎすした雰囲気をかもし出すのではなく、義や平和や喜びが私たちの内に互いに実現するように、かかわっていくのだ。弱いも強いもない、それぞれがそれぞれの信仰の課題を抱えている。そして他人との比較の中に信仰を生きる発想ではなく、ただ神の前に責任を負うという発想にならない限り、決して、信仰の成熟を達成することはできない。自分に対しても、他人に対しても、寛容であり信仰を育てるという姿勢を持って、今日の一日も歩ませていただこう。

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