ヨブ記6章

6章 ヨブの弁明

<要約>

おはようございます。ヨブの第一回目の弁明は、エリファズのことばに応じて語られています。しかしその一言一言が、かつて自分も吐いたような、非常に私たちの気持ちを代弁するような部分があります。これほど私たちの気持ちを捉える聖書が、私たちにどんな指針を示してくれるのか、興味深く、読み続けたいところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.気休めを言うな(1-7節)

エリファズは、ヨブの苦難は神の懲らしめであるとした(17節)。これに対してヨブは、私の苦しみがどれほどわかるというのか(1節)、自分の苦しみと、破滅の状況が秤で量ろうとするなら、それは量りきれないだろう、と言う(2節)。ことばが過ぎるのは、病んだ心と体から滲み出る叫びなのだ。病と不幸という神の矢とその毒に、体と心が音を上げている。それなのにまだ神の脅威が私を取り囲んでいるのだ(4節)。だからヨブは、エリファズのことばに、あからさまに嫌悪感を示し、語った。ごちそうにありついた獣がうなり声を出したりはしない。そうなるのはまずいからだろう。あなたのことばは「味のない物を、塩なしで食べる」ような無味乾燥なもの(6節)、「腐った食物のようだ」(7節)、吐き気を催す、気休めを言うな、と。

2.早く死んじまいたい(8-13節)

8節、「私の願い」「私が望むもの」は、婉曲的に死を意味している。ヨブは、エリファズが語る「全能者の懲らしめ」よりも、「死」を願っているのである。最後のとどめを刺してくれるなら、それは願ってもないことだ(10節)、と言う。もはや、先に妻を愚かであるとたしなめたヨブはいない。もはや、その魂は地に堕ちてしまっていた。

旧約において死を願った信仰者は、モーセ(民数11:14,15)、エリヤ(1列王19:4)、ヨナ(ヨナ4:3,8)が知られる。彼らもまた神に直談判したのだが、ヨブも神に訴えている。

「私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか、耐え忍ばなければならないとは」(11節)。エリファズが言うように(5:11-26)どんな転機、あるいは逆転劇があるというのか。そんなことはあるわけがない。もはや、耐え忍ぶ力も、体も、知性もない(12節)、まだ若ければまだしも、もはや幸せをつかむチャンスなど何もない、だから早く死んじまいたい(13節)というわけである。

3.お前たちにはがっかりだ(14-21節)

友には友情を求めるものだろう(14節)。「友情」と訳されたことばはヘブル語でヘセドである。それは、忠実な変わらぬ愛を意味する。しかし、ヨブは裏切られた感を強くしている(15節)。その気持ちをイスラエル人であればわかりやすい、たとえで語っている。「氷で黒ずみ、雪で隠される」(16節)は、おそらく、レバノン山麓の谷川で、春になると氷と雪の解けた水が濁流となって流れる様を言っているのだろう。それほど豊かな水が、夏の渇水期になると嘘のように引けて、干上がり、川床をちょろちょろと流れる浅い流れもやがて干からびてしまう。水無し川となってしまうのである。砂漠地帯を旅する者たち、たとえばテマ、あるいはシェバ、南アラビア砂漠方面からの隊商が、飲み水を求めてこれを当てにしてきても、それは干上がっている。友よ、あなたも同じようなものだ、と言う。かつて、あなたがたの友情は本当に頼もしかった。しかし今この苦しみにあって、私の気持ちを汲むことばも、私と共に苦しみを分かち合うのもでもなく、あげくのはてに、私の重たさに巻き込まれるのを警戒しているではないか、と(21節)。

4.はっきり言えよ(22-30節)

ヨブは好戦的である。エリファズが、神の懲らしめと語ることに対して、だったら、何を懲らしめようとしているのか、わからせてくれ、とヨブは迫っている。何もかも失ったこの状況で、何かをくれと乞食のようにせがんだりもしない、破滅したから借金を肩代わりしてくれとも言わなかったではないか(22,23節)。「教えよ」私の何がいけなかったのか、何かしたというのであれば、どこがいけなかったのか、具体的に指摘してはっきりさせてくれ、と言う(24節)。

エリファズよ、あなたの空しいことばに私の心は挫かれるばかりである。あなたのことばは、全く的を射てない「何を攻めたてているのか」(25節)と反問している。あなたがたはこうやって私を慰めようと、ここに来ているが、私の気持ちを理解してくれているとは少しも思えない(26節)、むしろ、一家破産の後に一人残された孤児をどうするか、くじ引きをして、後始末をする債権者のような感じではないか(27節)。

ヨブは、もしあなたがたが本当の友ならば、私の状況をしっかりと見定めて欲しい、と訴えている(28節)。私の身に何が起こっているのか、私の訴えは何であるかをよく理解して、真実を語りかけて欲しい、私は、まやかしを言っていない、私の罪ではなく、私の正しさが問われている。と言う。ヨブはいわれのない苦しみを味わっているのだ。

確かに人は、時として、荒々しく、乱れたことを言うものだろう。しかし、表面的なことばを真に受けとめ過ぎて、問題がますますおかしくなることがある。そして、往々にして人は人のことなど関心がないものである。表面的に見て、問題をわかったつもりになって、言いたいことを言ってしまうものだろう。事の真実を見極める難しさがある。罪人の底の深さがある。主が私たちに知恵と識別の心を与え、共に生きる重さに勇気を与えてくださるように。

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