マルコの福音書4章

種まきのたとえが語られる。おそらくこの時イエスは、種まきの様子を見ていたのだろう。日常的な出来事から神の真理を教えるのがイエスの特徴であるが、当時は、種を詰めた袋の端を切り取って、ロバの背中に乗せ、畑の中を歩かせ、種を流れ落ちさせる、そんな方法が取られていたようだ。種が道端や岩地、さらにいばらの地に落ちるのはそのためである。方法はどうあれ、種まかれた土壌の状態は、神のことばに対する様々な応答を語っている。ある人は神のみことばに対して踏み固められたような堅い応答をする。パリサイ人はまさにそんな感じである。福音を受け付けようとしない堅い心を持っている。また岩地は、根が降ろせない場所である。聖書の話を喜んで聴いても、日照りや強風にたとえられる反対や困難に遭遇すると、いとも簡単に脱落してしまう人である。さらにいばらの地は、神の言葉を喜びながら、世に対する愛着も捨てられない人のことである。バプテスマのヨハネを投獄したヘロデがそうかもしれない。いざとなれば、神が後回しになってしまう人である。神の言葉に対する応答は様々である。ただ皆がだめな聴き手であるわけではない。よい心で神のことばを聞く者もいる。信仰において成長するような聴き方をする者、30倍、60倍、100倍と信仰の実を結ぶ者もいるのだ。

基本的にこのたとえは、3:35、「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」の続きである。つまり、イエスの心のうちにあったのは、「神のみこころを行う」である。イエスは、率先して神のみこころを行う人として、マルコの福音書には描かれてきている。だから9節、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」となる。家族なら、つまり奥義を分かち合う身内ならば、「神のことばに耳を聞いて、神のみこころを行い、実を結ぶ者になろう」というわけである。

いずれ、イエスの語ることは、イエスが兄弟、姉妹、母と今見なしている者よりも多くの人々に、理解されるようになるだろう。「隠れているもので、あらわにされないものはない」のである。だが、神を認め、神に聞き神のみこころを行う、という心をもたなければ、イエスの身内になることはできない。そういう意味で、キリスト教の「信仰」は、単なる知的同意ではない、それは単純な信頼でも物足りない。やはり神のことばを喜び愛し、これを行うことをもって信仰している、と言うことができるのだ。

「夜は寝て、朝は起き」の自然に成長する種のたとえ(26-29節)はマルコのみが記録するものであり、私は個人的にこのたとえが好きである。要点は、神のみことばを受け入れるなら、神のみことばには命があるから、それは神の恵みを受けて自然に成長するということだ。来る日も来る日も、信仰を持って、神のことばを喜び愛し神のみこころを行う心をもって聖書を読み味わっていく、三度の食事を繰り返すような単調な繰り返しであるかもしれないが、当たり前のようにみ言葉に養われ取り扱われていくならば自然な成長がある。点数を稼ぐかのようによい子であることを意識して、萎縮しながら神のみことばに服従するだけの人生に、本当の意味の成長はない。大切なのは、神の恵みの日々を過ごす中で、自然に育つ部分があることを知ることだ。

続くからし種のたとえは、そんな結果を語る。その効果は素晴らしく、全く注目もされない小さな者たちですら、どんな木よりも大きく成長するのだ、という。だが湖の嵐の体験はもう一つの大切な真理を伝えている。ガリラヤ湖は、長さが21キロ、幅が12キロ、琵琶湖の2分の3ほどの大きな湖であったから、突風が吹いて荒れるなら小舟はあっという間に沈んでしまう。彼らは恐ろしい事態に直面していた。しかしその時こそ彼らが信仰を働かせる機会であった。学んだことは実践されなくてはいけない。頭で理解できたことを実生活に生かすのである。日々聖書を飽くことなく読むだけではだめで、信仰を働かせるべき時が来たら働かせてみる、神の御心に応答する、その積み重ねが、からし種の成長を得させるのである。

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