ヨエル書2章

2章 今の危機から終末の危機へ

おはようございます。今現実に起こっている危機に重ねて、終末の危機が来ることが預言されます。しかし何も恐れることはありません。主を呼び求める者は救われるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.立ち止まり考える

11節、「主はご自分の軍隊の先頭に立って声をあげられる」ヨエルは、イナゴの大来襲は、神によるさばきであると実にストレートです。現代においては、世の中に起こる出来事を見ながら、色々なことに配慮する思いが先に立って、疫病や災害が起こっても、こんなにストレートにはなかなか言えないものでしょう。しかし、これは人が人に向けて語ることばではなく、神が、ヨエルを通して人に語られることばであり、人がそれぞれ神と向かい合う中で、個人的に受け止めていくべきことばであることに注意せねばなりません。そして、社会の動きを大きく止める、あるいはスローダウンさせるような事態が生じる中にあっては、よくよく立ち止まって、果たしてかねがねこれでいいのだろうか、と深く考えもせずにやり過ごしてきた問題を考える必要があるのも事実なのです。

15節「断食を布告し、きよめの集会を招集せよ」既に1章でも繰り返されてきました。具体的にどんな集会なのか、それは主を求める集会です(1:14、19)。つまり、それまでないがしろにされていた神礼拝を大事に行うことでしょう。神あっての私たちの人生なのに、仕事が忙しいので、家の用事があるので、とそれまで適当に端折られてきた礼拝や祈祷会に、しっかり参加して、これまでの態度を悔い改め、熱心に祈りをささげることでしょう。「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(13節)とあるように、悔い改めのパフォーマンスではなく、心からの立ち返りが求められているのです。確かに今が、神の助けを求めなければならない非常事態であるとすれば、なおさらキリスト教会の礼拝や祈祷会は、世の希望のしるしとして赤々と燃えていなくては、と思うところでしょう。神の実在感乏しく、自分の都合を優先させる者は、神の国にふさわしくないのです。

2.神の不思議

実際、神は、その民の応答に対していなごを取り除き、いなごが奪い取ったすべてのものを、豊かに回復してくださるとまで約束されておられます(18-27節)。神は、私たちの思わぬ方法で、受けた被害のすべてを取り戻してくださる、と言い切ります(26節)。それは神の不思議なのだ、と!大事なことは、悔い改めは世の人々に向けて語られているのではなく、神の民に向けて語られていることです。「私の民は永遠に恥を見ることはない」(27節)。人が奇妙な目で見ようと、世に起こる災いを神の怒りと真摯に受け止め、悔い改め、神を呼び求めるその者は、そのことで決して恥を見ることはないと言います。

ヘブル語聖書では、28節から3章となっています。内容的にも、今の危機を踏まえた、終末の危機について語るものです。つまり「主の大いなる恐るべき日」(31節)は、人類にとって最大の脅威である終末の時代が来ることを物語っています。実際、ペテロは、ペンテコステの説教で、この箇所を引用して解説しています(使徒2:16-21)。それは、「大いなる恐るべき日が来る前に」神の民が、神の霊を注がれると預言された出来事の成就である、と。つまり、「大いなる恐るべき日」が確実に近づいている、と言うわけです。しかし今この危機にあって主を呼び求める者が救われるならば、その日も同じです。主の御名を呼び求める者に何も恐れることはありません。主を呼び求める者は救われるのです。

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