2列王記9章

9章 オムリ王朝の最期
<要約>
おはようございます。神の正義はいつ実現するのか、と思うところがあるものです。しかし、聖書は、ある意味で不条理な人生を強いられた人たちに対する神の力の現れを語っている、と言うべきでしょう。いつの時代にも希望を捨ててはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エフーの預言の成就
 オムリ、アハブ、アハズヤ、ヨラムと四代続いたオムリ王朝が、エフーの謀反によって滅びていく。この章は、アハブとアハブの妻イゼベルに対する預言が成就していく記録である。
 エリシャがエフーに油注ぐために遣わした若い預言者というのは、ユダヤ教の伝承によればヨナであったとされるが、確かなことはわからない(2列王記14:25)。ただ背景的には、ニネベにアッシリヤ帝国が栄え、イスラエルがその脅威に脅かされていた時代である。神は、オムリ王朝を裁くために、エフーに油を注がれた。エフーは、ラモテ・ギルアデでヨラム王とともに戦っていたが、ヨラムは負傷してイズレエルに帰っていた。5節、会議中であるというが、そこでは誰が王の代行者として指揮を執るかが話されたのであろう。11、12節で言いたいことは、将校たちが、あの預言者は何者で何をしに来たのか、と聞いたことに対して、エフーが「聞くに足りない、たわごとだ」と質問をはぐらかそうとしたもののはぐらかしきれず、今が真実を告げる時と判断、主の言葉を語り自分が神によって王とさせられた、と打ち明けた、ということである。そこで、15節につながる。もし将校たちの宣言「エフーは王である」(13節)が本心からというなら、療養中のヨラムがいるイズレエルのもとにこの謀反を知らせてはならない、と。
エフーは大軍を率いてイズレエルへ向かったようである。その尋常ならぬ姿に、見張りが警戒をするが、ヨラムは最後まで謀反の危機を知ることなく、エフーの手で殺されてしまうことになる。まさに謀反の秘密は守られ、神の語られたとおりにさばきが執行された。一読、神の御業は思わぬところから起こる。イエスは、この石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる(マタイ3:9)、と語った。神は無きものを有るものとし、有るものを無きごとく扱われる。
2.エリヤの預言の成就
悪名高きイゼベルもまた、預言者エリヤを通して語られたとおりに、さばきを受けた。イゼベルは、アハズヤ、ヨラムに至るまで、大きな影響力を及ぼしていた。「ジムリ」は、エラに反乱を起こして王位を奪ったものの七日間で自らも裏切られて死んだ人物である。イゼベルは、エフーもまたそうなるだろう、と皮肉ったのだろう。ともあれイゼベルは死んだ。彼女の最後は、頭がい骨と両手首、両足を除いて犬に食われるという悲惨なものであった。しかしそれがエリヤの預言のとおりであったという。
一体誰がエリヤの時代にそのようになると考えたであろうか。イゼベルの横暴を前に、エリヤは預言をしたが、そう語るエリヤ自身、何か空を打つようなむなしい気持ちにさせられていたのではあるまいか。こんな言葉を発して何になろうか、と。むなしく相手にされないたわごとを語っていると思わされたことであろう。そしてエリヤが竜巻にあげられて天に戻った後、誰がエリヤの言葉が成就すると信じ続けたであろうか。誰もが、時代は変わらず、このまま過ぎ行く、イゼベルの横暴を阻止する者は誰もいないのだ、神ですら、と考えたことだろう。
しかし神のことばは時が満ちれば必ず形を現してくる。不思議をなさる神がいることに注目したい。そして今の時代に、納得のいかぬことがあるなら、神が何を語って来たかを思い起こす必要があるだろう。すでに神は、聖書において語っておられるからである。

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