ヘブル人への手紙13章

ヘブルの著者は最終章にて、具体的な勧めを連続して書き現わしている。

(1)兄弟愛を持ちなさい(1節)

(2)もてなしを忘れてはいけない(2節)

(3)人を自分と同じように思いやりなさい(3節)

(4)結婚を尊びなさい(4節)

(5)金銭を愛してはいけない(5節)

エリヤを養ったツァレファテの未亡人に与えられた主のことばは「かめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」であった。祈り一つで何千人という孤児を養ったというジョージ・ミュラーは、5節の「主は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」ということばを愛誦したという。人でもなく、金でもなく、神を信頼し、神に駆けて歩む。そこに信仰者の生きるべき道がある。実際、神のみことばを指導している人々を思い出し、彼らの生活の結末をよく見るとよい。今は亡き指導者は、その信仰によって語っているではないか、彼らを見倣いなさい、と勧められる(7節)。真に主のみことばに生きている指導者は、背伸びせずに歩んでいた。日々、その生き方が模範であり、日々み言葉に生き抜いている自然の重さがあるものだ。

8節、イエスは、変わることがない。大切なのは、珍しいと思うような、常に変幻する教えの風に惑わされないことである。むしろ、変わることのない主の恵みにこそ、日々養われるべきことである(9節)。特定の物を食べる食べない、そんな律法的な生き方にも距離を置くことだ。そんなところから何の益も得られないからである。大いなる利益を得る道は、ただ一つ、イエスに倣う歩みである(12節)。これは、明らかにレビ記に教えられた罪のきよめのささげ物について規定からの教訓を語っている。罪のきよめのささげ物は、脂肪とその他の部分に分け、火で焼き捨てなければならなかった(レビ記6:30)。しかも脂肪以外は、祭壇で焼くことはできず、宿営の外で焼き捨てるように規定されている(レビ記4:11,12,21)。その実際的な意図は、第一に、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物が混同されないことにあった。そして第二に、宿営の外で焼かれたことは、イエスが、ユダヤ人の宿営の外で受難されたこと、つまりイスラエルの全会衆の罪のために受難されたことを意味している。ヘブルの著者は、そのイエスに倣う、それが大いなる利益を得る道だ、と語るのである。イエスの足跡を積極的に進みゆく、そこに私たちが目指す、天の永遠の住まいのゴールもある。私たちの生はこの世で終わるものではない。だからむしろ、イエスに助けられながら、イエスに倣い、イエスの恵みを証する歩みであることが大切なのである(15節)。それは平たい言い方でいえば、まさに善を行うことであり、分かち合うことであり、キリストの苦しみを分かち合う歩なのである。それこそが、神に対する本当のささげ物であり、神様に期待されていることである。

17節、教会の指導者を認め、服従し、喜んでその教えに従っていこう。今度は、既に天に召された指導者ではなく(7節)、今現に生きている指導者である。たましいのみはりのために、神様が彼らを立ててくださったのである。彼らは神様に報告義務がある。神様に忠実であろうとする彼らの働きが妨げられないように、彼らが喜んでその働きができるように、協力的であろう。それは、あなたがたにとっても必ず益になることだから、と言う(17節)。

そこで、牧師のためにも祈るように心がけよう(18節)。ただ祈ってくださいというのではない「もっと」祈ってくださいと著者は言う(19節)。教会の務めは祈りである。教会が祈りの霊に満たされるように期待される。教会に行けば、祈られている、もっともっと祈られている、そういう教会でありたい。実際のところ、私たちクリスチャンの成長は、霊的なものである。そして、霊的にこれを阻もうとする悪魔の働きも大きい。教会の働きは霊的な働きである。となれば、聖霊の働きを求める祈りこそ、最も大事にされるべき奉仕とならねばならない。まさに、復活の主が、神のみこころにかなう働きのための一切の必要を満たしてくださるように祈らねばならないのである(21節)。ただ主キリストの栄光があるように、主の恵みがあるように、今日もそのように祈り、主の期待の中にこそ歩ませていただこう。

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