民数記13章

13章 カナンの偵察,カレブの信仰
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。不平不満に満ちたイスラエルの民が(11,12章)、信仰のチャレンジに直面します。しかし、当然彼らは、それを乗り越えることができません。「あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。」と語る神の言葉に立つ信仰的な力が育っていなかったのです。霊的な成熟が私たちの信仰生活の鍵であることを覚えたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.偵察に遣わされる12人の代表たち(13:1-16)
イスラエルの民は、パランの荒野に宿営していた。そこは、申命記では、「あの大きな恐ろしい荒野」(1:19)と呼ばれている。石灰岩からなる標高約700メートルの不毛の台地であったからだ。そこからモーセは12人の偵察隊を派遣した。名簿に挙げられた名は、明らかに部族長のものとは異なっている(1-2、7章)。人口調査や奉献の時には、最年長の者が各部族の代表となったが、偵察隊に任命された者は、その任務にふさわしい若い者が選ばれたのだろう。ヨシュアはホセアと呼ばれている。ホセアは救いを、ヨシュアは、主は救いを意味している。
2.偵察隊の使命(13:17-20)
さて、モーセは12人の偵察隊に、その使命を明らかにしている。第一に住んでいる民の特色と人口、第二に、町での暮らしぶりと防御度、第三に土地の生産性を偵察してくることである。しかも、百聞は一見にしかず。それらの土地がどのようなものであるかがわかるように、その地の果物を取ってくるように命じている。「初ぶどうの熟すころ」というのは、だいたい、7月中旬から8月初旬にかけてである。つまり、シナイから出発して約2か月が過ぎた頃であった(10:11)。
3.偵察(13:21-24)
偵察隊は、カナンの地、つまりツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまでその地を探ったという。カナンの地の領土の広がりについては、34:1-12に詳しく語られている。それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部を含んでいる。彼らは40日間、その地を偵察した。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分散して偵察したのだろう。ネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいるが、彼らにとっては重要な歴史的スポットである。著者にとっても、偵察者、そして当時の読者にとっても、この場所は深い関心の的であった。事実ネゲブは、神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所があった。しかしその地には今や、アナクの子孫が住んで、ユダの山地では最大の防御度の高い町となっていた。それはイスラエルの土地として回復されなければならない土地であった。そして彼らは、一房のぶどうの房を持ち帰った。神が確かに言われたように、そこは、乳と蜜の流れる地であった、というわけだ。
4.偵察隊の報告(13:25-33)
偵察隊は報告した。「そこには確かに乳と蜜が流れている」と。しかし彼らの内10人は、そこで、イスラエルを鼓舞し、チャレンジャ―として立っていく意気込みを見せるどころか、むしろ、その地を征服するのは困難であると力説する。民は失望した。機会よりも障害の大きさに意気消沈、自分たちはその地を占領することができない、と決めつけてしまうのである。私たちと共におられる神の全能性を覚えることがないならば、障害の大きさに圧倒され落胆するばかりである。
しかし、カレブは信仰の人であった。カレブは「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(30節)と断言した、というのがここで語られる定番のメッセージだ。しかしどうなのだろう。カレブは、どこまで信仰的に考えていたのだろうか。
当時のカナンには、エリコのような数多くの城壁化した町々が散在していた。またエモリ人、ヘテ人、カナン人と様々な民族が住んでいた。そこは確かに肥えた良い土地であったかもしれないが、良識に照らせば、そうやすやすと占領できるしろものではなかった。事実、カナン征服は、BC1240 年頃から始まったと言われ、ヨシュアによる土地の分割まで20年、士師の時代を経てダビデの統一までを考えれば約300年の月日が費やされている。ただ、土地に割り込んで住むだけのことであれば「必ずそれができる」と言えたかもしれないが、これらの土地を自分たちの王国とするというのは気の遠くなるようなビジョンである。現実主義的に状況を考えればこそ不信仰にならざるを得ないことがある。だが、信仰と若気の至りは紙一重であるのかもしれない。
モーセが、荒野から出ていき、約束の地カナンへと向かう次の世代に繰り返したことばは、「主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。」(申命11:23)であった。「自分たちよりも大きくて強い国々」への挑戦が、信仰の歩みなのである。もちろん信仰によって歩むというのは状況を無視することではないが、神の召しに立つことである。微妙な言い回しであるが、不信仰な者たちは、「主が彼らに与えると誓われた地」(13:2、14:16、23、30、40、15:2)と言わず、「あなたがお遣わしになった地」(13:27)と語った。信仰とは、神の恵みとその御業を覚え、神のビジョンに生きることに他ならない。

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